『コーダの世界ー手話の文化と声の文化』
(澁谷智子、医学書院、2009年)を読み終える。
コーダとは、
「聞こえない親をもつ、聞こえる子どもたち」のこと。
1980年代のアメリカで、
「Children Of Deaf Adults」の頭をとって
「CODA」という造語がつくられたのが始まりらしい。
まったく知らなかったことだらけで、
新鮮だった。
手話っていうのは、日本語の手話ではなくて、
「日本手話」というひとつの言語なんですね。
そんなことさえ知らなかった。
著者は、偶然だが、ぼくと同い年。
コーダ研究の第一人者とか。刺激を受けるなあ。
「コーダの話から浮かび上がってくるのは、『ろう文化』を
身につけた人の感覚、そして、聞こえる私たちがあまり
にも自明視している『聴文化』の姿形である。
多くの人は、音声言語を使うやりとりの方法をあたり
まえに思っているが、それは決して自然なものでも普遍
的なものでもない。それもまた、適切とされる目の使い方
や声の使い方、言い回しなど、細かいルールが共有され
ることによって成り立っている、一つの文化のあり方であ
る。そのことを意識しながら、この本の中では、音声言
語を使う聞こえる人たちの文化を『聴文化』、その文化を
身につけている聞こえる人を『聴者』と呼ぶことにする。
そしてもう一つ、この本では、コーダと聞こえない親の
親子関係を、コーダやその親の目線も入れて描くことを
めざしたい。
世間では特別視されることが多いが、コーダと親は、
聞こえる/聞こえないの違いはあっても、ごく普通の親子
である。たしかに、聞こえる/聞こえないの違いは、一つ
の現実的な条件として、その家族のあり方を形作っている。
しかしそれは、親が聞こえないことを、すぐ『苦労』とか『大
変』と結びつける世間の見方ともずれている。コーダや
親が、親子の愛情や葛藤やさまざまな思いを込めて家族
の話をするとき、そこに子どもが聞こえて親が聞こえない
という背景がさまざまに織り込まれてくるといったほうが、
しっくりくると思う。本の中では、そのあたりを丁寧に書く
ように心がけた」(はじめに、より)