長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

コーダの世界

『コーダの世界ー手話の文化と声の文化』

(澁谷智子、医学書院、2009年)を読み終える。

 

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コーダとは、

「聞こえない親をもつ、聞こえる子どもたち」のこと。

 

1980年代のアメリカで、

Children Of Deaf Adults」の頭をとって

CODA」という造語がつくられたのが始まりらしい。

 

まったく知らなかったことだらけで、

新鮮だった。

 

手話っていうのは、日本語の手話ではなくて、

「日本手話」というひとつの言語なんですね。

そんなことさえ知らなかった。

 

著者は、偶然だが、ぼくと同い年。

コーダ研究の第一人者とか。刺激を受けるなあ。

 

 

「コーダの話から浮かび上がってくるのは、『ろう文化』を

身につけた人の感覚、そして、聞こえる私たちがあまり

にも自明視している『聴文化』の姿形である。

 多くの人は、音声言語を使うやりとりの方法をあたり

まえに思っているが、それは決して自然なものでも普遍

的なものでもない。それもまた、適切とされる目の使い方

や声の使い方、言い回しなど、細かいルールが共有され

ることによって成り立っている、一つの文化のあり方であ

る。そのことを意識しながら、この本の中では、音声言

語を使う聞こえる人たちの文化を『聴文化』、その文化を

身につけている聞こえる人を『聴者』と呼ぶことにする。

 そしてもう一つ、この本では、コーダと聞こえない親の

親子関係を、コーダやその親の目線も入れて描くことを

めざしたい。

 世間では特別視されることが多いが、コーダと親は、

聞こえる/聞こえないの違いはあっても、ごく普通の親子

である。たしかに、聞こえる/聞こえないの違いは、一つ

の現実的な条件として、その家族のあり方を形作っている。

しかしそれは、親が聞こえないことを、すぐ『苦労』とか『大

変』と結びつける世間の見方ともずれている。コーダや

親が、親子の愛情や葛藤やさまざまな思いを込めて家族

の話をするとき、そこに子どもが聞こえて親が聞こえない

という背景がさまざまに織り込まれてくるといったほうが、

しっくりくると思う。本の中では、そのあたりを丁寧に書く

ように心がけた」(はじめに、より)