長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

桐島、疲れすぎて、アニマシオン

最近読み終えた本。

 

 

『桐島、部活やめるってよ』(朝井リョウ、集英社文庫、2012年)

 

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作者若干19歳のときのデビュー作。

驚きの筆力と構成力ですね。

 

高校生活のなかの微妙な力関係やバランスの上にたつ

17歳たちの葛藤や思いの描写にうなる。

 

『何者』につづいてこれも良作でした。

 

 

 

『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(内田樹、角川文庫、2007年)

 

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ユニークな洞察、型の力を抜いたトーク全開って感じ。

やっぱり身体論のところがいちばん面白かったかな。

 

内田さんの本はだいたい、

「それちょっと違うでしょ」が3割、

「ほうほう、たしかにそうですね」が5割、

「うわっ!その視点おもしろっ!」が2割ぐらい。

 

その「うわっ!おもしろっ!」のために読んでます。

 

以下、自分のためのメモ。

 

「ホッブスやロックが近代市民社会論を書いたときに

近代の市民に対して『利己的にふるまう』ことも勧めたのは、

人々が自分の幸福を利己的に追求すれば、結果的には

必ず自分を含む共同体全体の福利を配慮しなければ

ならなくなる、と考えたからです。利己的な人間は必ず

家族や友人の幸福を配慮し、共同体の規範を重んじ、

世界の平和を望むはずだ、と考えたのです」(20~21P)

 

「『不愉快な人間関係に耐える』というのは、人間が受ける

ダメージの中でもっとも破壊的なものの一つです。できるだけ

すみやかにそのような関係からは逃れることが必須です」(24P)

 

「『手を抜く』というようなことは訓練を訓練を受けないと

身につかない社会的技能」(44P)

 

「都会で生活する人は、視覚的にも聴覚的にも刺激が

多すぎますから、知覚の回路をオフにせざるをえません。

当然ですよね。都会の街路にあふれる大音量の音楽やら、

おしつけがましい広告やら、路面や車内での絶え間ない

アナウンスやらにいちいち反応していたら身が持ちません。

どうしても、知覚の入力に際しては、選択的に聞こえない

ようにしたり、見なかったりして、自分を守ることが必要に

なります。その防衛システムとして、都会生活者は自ら

進んで知覚をオフにしているのです」(127P)

 

「自分のまわりの防衛のためのバリアを張るということは、

外側に起こっていることに対して鈍感になるということと

同義です。近年の子どもたちは小さい頃から、家にこもって、

漫画やビデオゲームなどの視覚中心の遊びに耽(ふけ)る傾向

があります。ゲームでは動態視力と反射神経は向上する

でしょうが、その以外の知覚、全体的な身体感覚や背中の

感覚などは育ちようがありません」(128P)

 

「自分の身体の1つ1つの部分に対して『敬意』を抱くこと、

これが身体感受性の開発にとって、おそらくもっともたいせつな

心構えだろうと思います。養老孟司的に言えば、ぼくたちは

あまりにも『脳的』です。脳が身体を支配している、という

上意下達のシステムで心身関係をとらえています。でも、

ほんとうはそんなものではない」(135P)

 

「たぶん、学校教育は、人間の持っている能力のうちの

ほんの一部しか査定できないということなのでしょう」(145P)

 

「『ものを作ってこそ』というのは、産業構造云々という問題

よりも、人間そのものの成り立ちからして、人がこだわり続け

ないといけないことなのだと思います」(156P)

 

「反対者や敵対者を含めて集団を代表するということ、それが

『公人』の仕事であって、反対者や敵対者を切り捨てた『自分の

支持者たちだけ』を代表する人間は『公人』ではなく、どれほど

規模の大きな集団を率いていても『私人』です。自分に反対する

人間、自分と政治的立場が違う人間であっても、それが『同じ

日本人である限り』、その人は同胞であるから、その権利を守り

その人の利害を代表する、と言い切れる人間だけが日本の

『国益』の代表者であるとぼくは思います。自分の政治的見解に

反対する人間の利益なんか、わしは知らん言うような狭量な

人間に『国益』を語る資格はありません」(176~177P)

 

 

 

『アニマシオンが子どもを育てる』(増山均、旬報社、2000年)

 

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昨年旅行に行ったスペイン(とくにバルセロナ)の

「教育」「生活と文化」「ゆとり」が語られていて、

そうだそうだと共感すること大。

 

教育という営みとあわせて、

「イキイキ・ワクワク・ドキドキ」をふくんだ創造性を育てる。

大事な課題と受けとめました。

 

また、労働組合運動もそうだし、学習運動も、

「課題」「活動」「教育」とともに、「イキイキ・ワクワク・ドキドキ」が

できる時間や空間がつくれないものかなあと(余暇的な)。

 

つまり文化。

そして豊かな文化をうちにふくんだ運動は強いと思います。

 

文化をつくりだすゆとり時間や空間が必要なわけですが(^_^;)

 

 

本書のなかに、

「たとえば1週間1人でどこかの島に行って、ゆっくりと

休養をとるのはいいことです。体を休めている間に、

人生のこと、会社のこと、自分の研究のことを考えます。

渦中にいて考えるのでなく、離れて考えると、それまで

気づかなかったことにハッと気づかされることが多いのです。

日常閉じこめられていた発想力がはたらくのです」

 

という記述があり、

 

「あ、これボクが毎年夏のひとり島旅で実践してることじゃん!」と、

その正しさにも確信が持てました。

(いや、まあ、前から確信持ってましたけど、さらに)

 

 

以下、自分のためのメモ。

 

「アニマシオンとは、生命・魂(アニマ)を活気づけることです。

心がゆさぶられてイキイキ・ワクワクすること、自由闊達な

精神と身体の躍動をつくり出していくことが、文化活動の基本

であり、市民生活と社会を豊かにしていく基礎だというのです。

フランスにも起源をもつ社会文化アニマシオンの理論は、

社会と文化の多元的な価値を認め、民主主義と地方分権を

重視し、表現・結社の自由と住民参加を求めます。したがって、

この理論は文化に関する理論であると同時に、人間発達と

社会の発展に関する理論でもあります。<教育=教え・学ぶ>

という営みとともに、<アニマシオン=イキイキ・ワクワクともに

楽しむ>営みがあってこそ、人間は成長し、豊かな社会生活を

築きあっていけるという考え方は、日本の教育や文化運動に

とって、根本的に重要な視点を提供しています」(45~46P)

 

「あり余るほどの自由時間やバカンスを自分の力で充実した

ものにしていくためには、自律的な生活のリズムづくり、創造的な

発想、仲間を組織して楽しみをつくり出す力などの、すぐれて

人間的な能力が求められるのです」(50P)

 

「時間とともに、空間の問題も大切です。スペインでは、どこにも

じつに便利な生活のなかの『たまり場』というものがあります」(73P)

 

「教育という営みは、子どもたちにとっては学ぶことです。

学ぶことは、楽しさだけでなく、しっかり習得するまでには苦労が

つきものです。読み、書き、計算を習得するのはけっして楽では

ありません。ですから教育は、目標に達するまでの苦労もふくめて、

子どもたちに伝えていく営みなわけです。ところがアニマシオン

というのは、先生も生徒も、親も子もおなじ人間として一緒に

楽しみということが目的です」(129P)