読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

ナイチンゲールを初めて学んだときの記録

メモ

ひとつ前の記事を書いていて、
ソワニエのことで以前書いたものを思い出しました。

 

2006年8月に、学習協の会報に書いたものをブログに再掲します。

ナイチンゲールを知るきっかけを与えていただいた

学びでした。あらためて感謝。


f:id:benkaku:20140223155441j:plain
 

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 

 

今年の5月から6月にかけて、ソワニエ看護専門学校1年生の

哲学講義(週1、全8回)を担当させてもらいました。そこで私が

学んだことを中心に、経験を報告したいと思います。例のごとく、

長く、まとまりのない文章になってしまいましたが…。

 ソワニエ看護専門学校は、岡山県民医連が創設した看護学校で、

かれこれ創設10年になります。教務に学習協の会員の方がおら

れたので、毎月のように『友』や会報を配りにいっていたのですが、

このたび、こうした講師の機会をいただき、本当に得がたい経験を

させていただきました。

 要請の中身は、看護師にとって必要な哲学、より具体的にいえば、

弁証法や唯物論といった「ものの見方・考え方」を身につけさせること、

ということです。といっても、とくに講義の内容についてこまかく注文

されることもなく、かなり自由にやらせてもらった感じがします。

 

 それと、毎回の講義の冒頭で、「長久の看護・医療読書日記」という

コーナーをもうけました。これは、講義から講義のあいだの一週間で、

私が、看護や医療に関する本を読み(基本3冊)、それを学生に紹介

したものです。

「まー少しは看護の勉強もせにゃなるまい」という思いもあったの

ですが、最大の理由は、私が看護や医療に関する本を現在進行形で

読んでいき、私自身が成長していく姿を学生に見せたかったという

ことがありました。学生にむかって「本を読め、勉強しろ」と何百ぺん

言うより、実際に自分がリアルタイムで本を読み、そこでの感動とか

学んだことを、熱が冷めないうちに学生に伝えることで、学生たちに、

「学ぶことの喜びやおもしろさ」を実感してほしい、という思いがありま

した。

この読書日記は、やっていくうちにガゼンおもしろくなり、完全に

私自身、のめりこむことになりました。さまざまな副産物も生まれました。

結局、8週間で読み、紹介した本は22冊にもなりました。

 この報告では、前半、その「看護・医療読書日記」で私が学んだことを

紹介していこうと思います。そして後半で、今回の哲学講義をつうじて、

そして学生たちの反応をとおして、学んだこと・考えたことを述べたいと

思います。

 

 まず、「読書日記」で得たことの第1は、ナイチンゲールの看護観、

そして生き方に出会った感動です。

 じつは、このソワニエの講義をはじめる前まで、私はナイチンゲールが

どこの国の人で、どんな時代に生き、どんな業績があった人なのかを、

まったく知りませんでした。ただ、看護師の代名詞としての「白衣の天使・

ナイチンゲール」という印象しかなかったのです。いわば真っ白の状態

でした。しかし、それが逆によかったのかもしれません。感動が大きかった。

 まず最初に読んだのが、金井一薫著『ナイチンゲール看護論・入門』

(現代白鳳選書、1993年)でした。この著書は、ナイチンゲールの看護論、

その中心的著作である『看護覚え書』の入門的な解説、そしてナイチン

ゲールの生涯や業績がわかりやすく学べ、導入に読んだ本としては最適の

チョイスでした。

 そして、驚いたことが1つ。それは科学的社会主義の創始者であるエン

ゲルスとの共通点でした。まず、生まれた年が同じであること。1820年

です。次に長寿。エンゲルスもこの時代では相当な長生きで、75歳まで

生きました。しかしナイチンゲールはなんと90歳。亡くなったのは1910年

です。

マルクスやエンゲルスと同時代に生きていたナイチンゲール。しかも

イギリス。ここでがぜん、「彼らとの接点はあったのだろうか」という疑問が

わいてきました。それについてはのちほど。

そしてもうひとつの共通点は、どちらも上流階級の出身ということ。エン

ゲルスは父親が工場の経営者、つまりブルジョア階級の出身でしたが、

ナイチンゲールも、当時のイギリスでも相当上位に位置する上流階級の

出身だったのです。

 ちなみに、ナイチンゲールの両親は、結婚してすぐに、ヨーロッパ大陸への

3年間にわたる新婚旅行に出かけます(このあたりが上流階級を象徴する

ような行い)。新婚旅行2年目にナイチンゲールのお姉さんが生まれ、3年目

にナイチンゲールが生まれます。ナイチンゲールが生まれたのはイタリアの

フィレンチェだったのですが、そのフィレンチェのギリシャ名である、「フロレ

ンス」が彼女の名前につけられました。

 話をもとにもどします。この『ナイチンゲール看護論・入門』では、「看護とは

何か」を、ナイチンゲールの看護論からその本質を導き出していて、読んで

いて随所に知的興奮、感動をおぼえました。そして、ナイチンゲールへの

興味と関心が一気に高まりました。そして読んだ本が数冊。

 

 まずなんといっても、ナイチンゲールの代表的な著作、『看護覚え書』です。

経済学に不朽の大著『資本論』があるように、看護理論の原点であり、その

輝きをいまも失うことのないのが、この著作です。

 初版が1859年ですので、いまから約一世紀半もの昔に書かれていますが、

まったく古さを感じません。新鮮な驚きだったのは、序章の「病気とは、回復

過程である」という指摘です。ナイチンゲールは、なんらかの原因で身体に

起こった異変に対して、自然の治癒力が発動して、元のバランスのとれた

状態に戻そうとする自然の生命現象として、病気をとらえました。

 たとえば、私たちがよくひく風邪。風邪をひくと熱が出ます。この発熱も、

体内に入った病原体を駆逐するために作られる抗体などの産生を高める

ための「回復過程」の現象です。鼻水もそうです。鼻水は、鼻粘膜についた

多量の病原体や異物を洗い流そうとする自然の働きの姿なのです。つまり、

発熱や鼻水が出るということは、身体が自らの免疫力を使って病原体と

たたかう体制に入ったというサインなのです。

病気とは、その人自身の生命力が、体内の異変(毒されたり、衰えたり)に

たいして闘っている姿であり、看護は、その人の生命力全体を俯瞰し、その

たたかいを助け、生命力の発揮に力をかすことが基本であるという指摘です。

「看護がなすべきこと、それは自然がはたらきかけるに最も良い状態に

患者をおくことである」「看護とは、新鮮な空気、陽光、暖かさ、清潔さ、静か

さを適切に保ち、食事を適切に選択し管理すること―こういったことのすべ

てを、患者の生命力の消耗を最小にするように整えることを意味すべきで

ある」(『看護覚え書』)。

 この他にも、『看護覚え書』では、換気問題、住居の清潔、物音、食事、ベッド

と寝具、太陽の光、からだの清潔、などの基本的な衛生環境・健康管理の

問題から、患者の変化をどうとらえるか、患者にたいする「おせっかいな

励ましと忠告」など、患者心理にたった多くの指摘は、示唆に富んでいます。

ナイチンゲールの豊かな経験に裏打ちされた科学的な看護実践記録でも

あります。また、第13章「病人の観察」は、哲学の講義でも何回かその内容を

紹介したのですが、科学的なものの見方を実践的に理解できる、すぐれた

内容をもっています。

なお、ナイチンゲールは、この本を、「すべての女性にむけて書いた」と

言っています。医療や福祉にたずさわる人でなくとも、ぜひ一度は読んで

もらいた本です。

 この『看護覚え書』の他に読んだものは、『ナイチンゲール言葉集-看護

への遺産』(薄井坦子著、現代社白鳳選書、1995年)、『ナイチンゲール』

(長島伸一著、岩波ジュニア新書、一九九三年)、『フロレンス・ナイチン

ゲールの生涯(上・下)』(セシル・ウーダム・スミス著、現代社、1981年)です。

 

 ナイチンゲールを学んでみて、その看護の理論にも感動したのですが、

なんといっても、彼女の生き様は、より印象深い学びとなりました。

 先述したとおり、彼女は上流階級の出身であり、一生涯働かなくとも、家の

資産だけで遊んで暮らせるような裕福な家庭に育ちました。しかし、彼女は、

そうした上流階級の暮らしには満足できず、少女時代には「くだらない事柄

に時間を無駄に使うのでなく、私は何かきちんとした職業とか、価値のある

仕事がしたくてたまらなかった」と私記に書いています。

 そして、ナイチンゲール22歳のとき、母の依頼で、スープと銀貨をもって

近くの村の貧しい農家を慈善訪問したとき、彼女の生き方を左右するような

衝撃を受けたのです。そのときの私記にはこう書かれていたそうです。

 「私の心は人びとの苦しみを思うと真っ暗になり、それが四六時中、前から

後から、私につきまとって離れない。まったくかたよった見方かもしれないが、

私はもうほかのことはなにも考えられない。詩人たちがうたいあげるこの世の

栄光も、私にはすべていつわりとしか思えない。目にうつる人びとはみな、

不安や貧困や病気にむしばまれている」(『フロンレンス・ナイチンゲールの

生涯(上)』P62)

 そして彼女は、24歳のとき、自分の使命を、病院に収容されている病人の

世話であるという認識に到達します。そこから、家族の反対など、多くの壁を

のりこえて、世界で初めて、看護という仕事を社会的地位に押し上げる、

先導となるのでした。

彼女はまた、たいへんな勉強家であると同時に、患者の病気を生み出す

原因となる環境の変革にまで、思考と実践をおし進めます。クリミア戦争での

兵舎病院での軍の無責任体質にたいするたたかいや、イギリスに帰国して

からの軍の衛生改革などが有名です。病人だけ、病気だけを看るということ

ではなく、その背景まで視野に入れ、変革を押しすすめるというのは、今日の

医療や福祉にも通じる、大事な姿勢です。

またクリミア戦争のさいには、兵士たちの福祉にも力を入れ、回復期に

入った兵士たちのために、学校を建てて教育し、憩いの場である大コーヒー

館をつくり、図書館を建設し、本国にいる肉親への送金の便を図るための

郵便局まで開設したということです。

よくナイチンゲールのイメージとして、「白衣の天使」とか「犠牲の精神」

というとらえかたがされているようですが、彼女の生涯はそんなセンチメン

タルなイメージとは正反対の、壮絶なたたかいと苦悩の人生だったと言って

いいと思います。貧しい人や病気を生み出す、非合理的な既存のしくみや

管理体制、社会的矛盾にたいして、ナイチンゲールは徹底的にたたかい

ます。そして、どんなに困難な状況であろうと、あきらめない人でした。

 私は、上流階級の出身であるナイチンゲールが、その恵まれた環境に

満足せず、人びとの苦難の軽減のために、その生涯を捧げたということに、

深い感動を覚えました。

 

 なお、ナイチンゲールと、マスクスやエンゲルスとの接点はあったのだろ

うかという問題ですが、マルクスが1855年の3月に、ドイツのブルジョア

民主主義新聞『新オーダー新聞』に、「調査委員会〔とその活動〕」という論説

を書いています(3月31日付)。短い論説ですが、クリミア戦争における

イギリス軍の傷病兵士や軍機構の問題を論じているところで、ナイチンゲール

が出てくるのです。

 「現地にいた者のだれひとり、しきたりの網を破り、当面の必要におうじて、

規則を無視して自分の責任において行動する気力のある者はいなかった。

ただひとりの人間があえてそれをやった。しかもそれはひとりの女性、ナイ

ティンゲール嬢であった。必要な品物が倉庫にあることをいったん確かめると、

彼女は屈強な男を数人えらびだして、実際に女王陛下の倉庫に押し込んで

強奪行為をはたらいたのであった。恐怖にこわばった調達部員に、彼女は

こう言った。『これで私は必要なものを手に入れました。さあ、あなたがたは

自分の目で見たことを本国に報告したらいいでしょう。すべての責任は私が

負います。』」(『マスクス・エンゲルス全集11』P158、大月書店)

 イギリス軍の内部には、不合理な規則、縄張り争いと責任回避の構造が

根深く存在し、それが、負傷兵を目の前にして、合理的な対策を実行する

ことを阻んでいました。それにたいして、ナイチンゲールが敢然とたちむかっ

たということが、述べられているのです。

これ以外の接点は、いまのところ見あたりません。たぶんもうないと思い

ますが、今後の追求テーマにしたいと思います。

 また、宮本百合子が「フロレンス・ナイチンゲールの生涯」というナイチン

ゲール論を書いていることも、付け加えておきます(『若き知性に』所収、

新日本新書、1972年)。これはある方から教えてもらいました。さっそく

読んでみると、まだナイチンゲールの著作の整理も遅れていたと推察される

時代に、ナイチンゲールの生き方を見通し、社会的背景とともに論じられ

ていることに、驚きました。

 さて、ナイチンゲールは、論文やパンフレット類までふくめれば150編

もの著作を発表しているそうです。その中心的なものは、全三巻にわたる

『ナイチンゲール著作集』(現代社)に収められています。今後も、彼女の

著作を読み進めていきたいと思っています。

 

 ナイチンゲールの話が長くなりすぎました。もっと書きたいのですが、

次のテーマに移りたいと思います。

(以下省略)

 

 

 

【追記:マルクスとナイチンゲールの接点について】

 

その後マルクスの妻イェニーが、

「理想のヒロインは?」の問いに

「フレーレンス・ナイチンゲール」と答えていた記録が

あることに気づきました。

とうぜん、夫婦でナイチンゲールが話題にのぼった

こともあると推察されます。