長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

いのちと責任、教育実践と教師

最近読み終えた本。 

 

『いのちと責任 対談 高史明・高橋哲哉』(李孝徳編、大月書店、2012年)

 

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学者さんどうしの対談、という感じ。

なんか物足りなかった、というか、

全体として論じている位置が高いという感覚・・・。

 

「取り返しのつかない罪への自覚」「おとなは数字が大好き」

「数字は物そのものではない」などが印象に残った。

 

 

 

『教育実践と教師ーその困難と希望』

(教育科学研究会編、かもがわ出版、2013年)

 

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シリーズ「講座 教育実践と教育学の再生」2巻目。

 

教師の仕事の今日的困難。

そのなかでも、希望をつむぎだそうとする教育実践とその課題。

実践記録を書くことの意義。学び多し。

 

 

以下、自分のためのメモ。

 

 

「教科学習は、学問の体系としての系統性もあるために、身に

つけさせたい目標が明確です。そのため、教師が『わかるように

させたい、できるようにさせたい』と教師主導の授業になってしまい

がちです。

 …子どもたちは毎日、ランドセルにいろいろな思いや願い、

それぞれの生活をつめ込んで学校に来ています。

 …1人ひとりの生活や背景を見ながら、子どもたちとともに、

子どもが主人公となる学びをつくることが課題なのです」

(渡辺恵津子「『生活と学び』をともに紡ぎだす」56P)

 

「ひとりの力より仲間と協力できる力こそが、自己の成長にかけ

がえのない力になることを気づいてほしい」

(井上力省「高校生とともに生きる」133P)

 

「学ぶことで考えることができる。考えることで自分の意見をもつ

ことができる。自分の意見をもつことは自立への第1歩だ」

(井上力省「高校生とともに生きる」145P)

 

「教育実践においては、子ども把握とはたらきかけは一体的に

いとなまれ、多少の紆余曲折はあったとしても、大筋においては

より確かな子ども把握がより的確なはたらきかけを可能にし、

両者が相互に深まりながら実践は展開していく。教育実践とは

この子ども把握とはたらきかけを繰り返しながら、その間に絶えず

省察を織り込んでいくといういとなみである。

 …実践記録を書くということは、『書くことを通して自らの子ども

理解(対象認識)とはたらきかけ(実践的行為)を振り返り(対象化し)、

それによって、子ども把握→はたらきかけ→より確かな子ども把握と

教育実践→より的確なはたらきかけ、という螺線状の回転運動を

しながら、教師としての実践力量を自己形成していく方法』であると

いうことができる」

(藤田和也「書くことと分析・批評し合うこと」217P)

 

「実践記録を書くことの意義は、それを書いて半分が達成され、

さらに書かれた記録をもとに仲間で実践検討しあって残りの半分が

達成される」  (藤田和也「書くことと分析・批評し合うこと」219P)

 

「仲間での実践検討は、実践者の気づきや力量の向上につながる

ことだけに意義があるのではない。それに参加する仲間にとっても

学びの多いものになることは言うまでもない。それはその実践の

良さから学ぶことはもちろんであるが、検討し合うなかで子どもの

見方や問題のとらえ方、実践検討のしかた、さらには発達観や

教育観までをも鍛え合うことになるからである」

(藤田和也「書くことと分析・批評し合うこと」219P)

 

「学校を『教育の場』にしていくためには、『教育のことば』を取り

戻さなければならない」

(渡部謙一「私たち自身の教育管理職づくりを」238P)

 

「議論なくして活力なし、納得なくして意欲なし、信頼なくして指導

なし、尊敬なくして管理なし」

(渡部謙一「私たち自身の教育管理職づくりを」239P)