長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

岡山市立病院労組講演(前半)

先日(7月16日)に
岡山市立病院労組で30分のミニ講演を
したのですが、
「機関紙に何回かに分けて掲載したい」
と、わざわざ講演要旨を文字起こしして
いただきました。

ということで、その前半部分を
掲載します(若干加筆・整理してます)。


 こんにちは。岡山県労働者学習協会の長久といいます。今日は「労働組合の意味と役割」というテーマで、30分ほどですが、お話させていただき ます。
 いきなりですが、おそらく、市民病院労組のみなさんのなかで、労働組合活動をバリバリ頑張っている方は少数ではないか思います。というのは、労 働組合や労働者の権利について、残念ながら学校教育のなかで教えられることはほとんどありません。また、マスコミに取り上げられることもほとんどありませんの
で、一般的に労働組合というものについて学ぶ機会がありません。したがって、「労働組合とは何か」がわからないまま、ほとんどの人が働き始めてしまっている、ということになります。ですから、労働組合自身が、職場のみなさんに、そうした学習ができる機会を提供することが特別大事になります。
 労働組合の意味や役割を知るには、「いまの姿」だけ見ていてもわかりません。労働組合が生まれてきた歴史、先輩たちのたたかってきた歴史を知ることが非常に重要です。歴史を知ることは、いま私たちの立ち位置をつかむうえでとても有効です。「労働組合とはどういう組織か」を自分たちのもの にすることができるのです。
 今日は前半、「人間らしさを求めて-看護のたたかいを例に」として、労働組合の役割と教訓を看護師のみなさんのたたかいの歴史を例にしてお話し ます。後半は「労働組合とはそもそもどういうものか」という基本的なところを押さえていきたいと思います。

【1】人間らしさを求めて-看護のたたかいを例に
 今日お集まりのみなさんは、さまざまな職種で働かれていると思いますが、看護師(当時の呼び名は看護婦)さんのたたかいにの歴史には、教訓的がつまっていますし、医療にたずさわる労働者にとって普遍的なものでもあるので、ご紹介させていただきます。

1)「人間らしさ」と「よい看護」を求めた人々の物語

◇日本の看護師は、戦場の血と硝煙に包まれて誕生
 日本は近代社会になって以降、ずっと戦争をしてきてました。看護師の歴史も近代以降同じように歩み始めましたが、日赤などを中心とした従軍看 護師が大きな役割を担ってきて、患者さんのためというよりは「お国のための看護」という面から日本の看護は出発しています。

◇戦後すぐの看護師の労働条件
 1945年に戦争が終わりました。戦後の看護師の働き方は、戦中の従軍看護の影響が色濃く残り、軍隊並の厳しさと長時間の労働奉仕という状況 で、自己献身・自己犠牲が強く求められた職種でした。
典型的なのが、全寮制だったことです。自宅からの通勤は許されず、病院のすぐそばの寮(しかも一部屋に5~6人の雑居同室)で住まわせられ、勤務時間もバラバラですから落ちついて寝ることもできません。寮監や総婦長に生活まで監視され、奉仕の精神のもと、厳しい労働に従事していまし た。就職の時には「結婚・通勤の場合は退職します」という誓約書を書かされていました。まさに「カゴの鳥」状態だったのです。
 1950年代から60年代には、女性の労働環境として「結婚退職制」や「妊娠退職制」が敷かれている職場が多く、看護師も例外ではありませんで した。非常に低い賃金で働かされ、食べられるだけの賃金をもらいたいというあたり前の要求もできなかった時代でした。
このような暗闇のような職場 に、光をともしたのが労働組合でした。それは、「組合に入れば、ものが言える」という意味であり、戦後の暗闇を照らす松明(たいまつ)でした。

◇古いおきてを破る人間宣言
1959年には、新潟の国立高田病院で妊娠制限という驚くべき実態が発覚しました。これは病棟の看護師で、「今年は妊娠出産をする人の数は○人までで、あなたたち。次の年はあなたたち」と妊娠していい人を決めていたのです。
そして決めていた人以外が妊娠してしまった場合、看護師の互助会の中で投票して出産していいかどうかを決めるという恐るべき人権侵害が発覚したのです。
こうした状況に、全国から批判が殺到し、また労働組合のたたかいによって、この「古いおきて」を撤回させ、「妊娠・出産の自由」を勝ちとることが できていきます。それは、「結婚・出産すれば仕事は辞めるのが当然」だった当時の女性の働き方の「革命」でもありました。

◇日本をゆるがす病院ストライキ
 1960年から61年、ちょうど安保闘争の時期と重なってくるわけですけど、全国で330病院3万人をこえる医療労働者が参加した「病院ストラ イキ」というものがありました。
 このストライキは、あまりにも低い賃金と前近代的な労使関係に怒りを爆発させた医療労働者が、「無賃(ナイチン)ガールはごめんだ」と、劣悪な 労働条件の改善、看護婦の結婚・通勤の自由、全寮制打破などを要求して、十数波におよぶ全国的なストライキを実施されました。
 医療従事者が、職場を離れてしまうストライキを行うことはまだまだ抵抗感が強く、「私たちは看護婦なのよ、労働者じゃないのよ」などの意識もあ り、ストライキをするにあたっては職場のなかで夜を徹しての激論がありました。しかし、「人間らしい労働条件を勝ちとることが、患者さんの命を守ることにつな
がるのだ」という労働者意識と、ストライキのやり方も工夫され、たたかいは発展していきました。

◇看護婦の夜勤制限闘争
次の大きなたたかいが、1968年の新潟県立病院を出発点にした「ニッパチ闘争」でした。当時、過酷な1人夜勤、月の半数を超える夜勤、長時間労働、母性破壊など、患者の命を守る責任が負えない夜勤体制や職員の健康破壊の実態が蔓延していました。「患者に良い看護をしたい」という切実な要 求を実現するため
に、1963年、全医労という労働組合が人事院に実態調査をさせ、「夜勤は月平均8日以内、1人夜勤廃止」などの判定を出させま した。
しかし病院側が労働条件改善を行わないなかで、1968年新潟県立病院において労働組合が多くの医療労働者の支援のなかで、「夜勤2人体制、月8回」の独自の「組合シフト」をつくり、たたかい開始し「2人以上・月8日以内」の夜勤協定を獲得することができました。それを皮切りに、 「2人以上・月8日以内」夜勤体制を要求する「ニッパチ闘争」が全国にひろがっていったのです。
川島みどりさん(日本赤十字看護大学名誉教授 )が著書『歩きつづけて看護』(医学書院)のなかで、「ニッパチを単に看護婦の労働条件改善闘争と位置づけるだけでは一面的だろう。なぜならこの闘いを通 して、看護婦として、一人の人間としての自分の生き方を振り返る機会となったという看護婦たちが多い
からである。自分の行動の正当性を自分だけが納得するのではなく、市民や職場の同僚に涙ながらに訴える過程で、それまでとは変わった自分を発見したという看護婦たち。看護婦としての良心と患者の生命を守る責務がほとばしり出る言葉は、多くの人びとの心を動かしたに違いない」と記述されています。
 
2)いつの時代も、困難な現実を前にして

◇あきらめなかった人びとがいるからこそ、今日がある
看護師さんのたたかいの歴史を振り返ってみると、困難な現実を前にしてあきらめなかった人たちがいたのだということです。
それぞれの時代、職場のなかには、組合活動にたいして嫌悪感をもっていたり、無関心だった人もたくさんいたに違いありません。しかし、「人間らしく働きたい」「患者さんにいい看護をしたい」という願いをあきらめなかった人びとがいました。そして、仲間によびかけ、手をつなぎながら、「それまでの現実」をひとつひとつ変えてきたのです。
いまも、厳しい労働環境であることにはちがいないですが、あきらめないたたかいこそが、私たちの職場の到達をつくってきたのです。そして、あきらめなかった人たちのなによりの原動力(力の源)となったのは、「仲間とつながりあうこと」であり、その舞台は労働組合であったのでした。

◇看護とは何かを問いつづけて
よい看護・よい医療・よい福祉は、ひとりではなし得ません。よく人間相手の仕事では自己犠牲が求められますし、働きがいもあるので、ついのめり 込んでしてしまいがちになりますが、よい看護・よい医療・よい福祉は決してひとりではできないし、自己犠牲だけでは成り立ちません。
働き続けられる労働条件が大前提で、それでこそ個人としても集団としても、仕事の知識や経験・技術が蓄積され、よい医療・ケアが提供できるわけで す。
「いい仕事がしたい」という職業意識と、「人間らしい労働と生活を勝ちとる」という労働者意識は、けっして別々のものではなく、統一されて初めてよい仕事ができる条件が得られるのです。ふたるの要素がお互いを高める存在だという
ことです。
何よりも職場で発言権を持ち、自分の言葉で参画することが重要です。(職場に
民主主義を)。私たちは物言わぬ機械ではありません。自分の言葉で自 分が望
む労働条件を勝ちとり、働きやすい職場にするために討論していく場を保証する
のが、労働組合なのです。