長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

労働者のことばを大切にしよう

『人権21』(おかやま人権研究センター発行)
2015年8月号への寄稿。

「労働者のことばを大切にしよう」

 子どもたちに人気のアニメ『妖怪ウォッチ』の第71話
(5月29日放送)に、なんと「労働組合」「労働基準法」
という言葉が登場した。
 妖怪ウォッチは、さまざまな調査を行って世相や子ども
たちの環境・文化をうまく内容に反映させていることで有
名だが(詳細ははぶく)、ついに、労働組合が登場したの
だ。妖怪ウォッチを知らない読者の方もおられると思うが、
主人公のケータくんがいつものように「妖怪メダル」で妖怪
を召還(呼び寄せる)しようとしたがいつものように妖怪が
現れない。じつはその日は、「妖怪ホリデー」であり、そ
れは妖怪労働基準法で定められていて、主人に呼び出されて
も応じる必要がない休日であったのだ。妖怪を働かせすぎる
ブラックなご主人様から妖怪を守るためにもうけられている
という説明であった。ただ、この妖怪労働基準法を適用され
るのは、妖怪労働組合に所属している妖怪だけ、という設定
(これはミスリードで、人間の労働基準法は非組合員でも当
然適用される)。ちなみに、ケータくんの執事として毎話登
場する妖怪ウィスパーは非組合員であることが判明。いっぽ
う、人気妖怪のジバニャンは妖怪労働組合に所属していて、
この日は呼び出すことができなかった・・・。

 この妖怪ホリデーの内容は、ネット上でも話題になり、ツ
イッターで検索してみると、「妖怪でも労働基準法は守られ
ているのに人間ときたら・・・」「人間もホリデー欲しい」「妖
怪にもブラック労働を防ぐホリデーがある」「まさか妖怪の
世界にも労働組合があったとは・・・」「人間も見習ったほうが
いい」など、驚きと羨望の声が多数あがっていた。それだけ
人間の労働環境、とくに働きすぎの問題が深刻であることの
反映だと感じた。

 さて、この妖怪ウォッチの話で大事なことだと私が思った
のは、「労働組合」「労働基準法」という言葉に、子どもた
ち(並びに一緒に視聴していた大人たち)が出会ったこと、
さらに妖怪ウォッチというアニメのストーリーのなかでそれ
が物語られたこと、だと思う。一緒に見ていた親子のあいだ
で、会話の話題にのぼったかもしれない。
 私は、学習教育運動のなかで、「労働組合とは」という、
そもそもの学習会を若い人を対象に行う機会が多い。感じる
のは、若い労働者のほとんどは、「労働組合」という言葉は
知っていても、それは言葉として知っているだけであって、
その意味、役割、背景にある歴史などについては、ほとんど
知らない。知っていても認識はひじょうに部分的だ。
 学校教育のなかで、労働基本権のことについて学ぶ機会は
ある。しかし、そのことが、将来労働者として自分が働くと
きにどういう意味をもってくるのか、ということが腹に落ち
ていない。自分の言葉として「にぎられていない」のである。
ここには、「知識を覚える」ことに価値をおく学校教育の大
きな枠組みと、言葉の意味をじっくりと掘り下げて対話しな
がらその言葉を自分のなかで位置づけていく場が少ない、と
いう問題がある。
 妖怪ウォッチの例をあげたのは、まずもって、こうした番
組で取りあげられることによって、「会話が生まれる」「話
題になる」ことの意味をあらためて感じたからである。

 「セクハラ」「ブラック企業」「立憲主義」など、こんに
ち社会の多くの人が知っているような言葉は、人びとの話題
になり定着していくことで、日常で「使われる言葉」になっ
ていった。言葉は、聞くだけでなく、自分で発していくこと
で、自分の身体に定着していく。だから使われることが大事
なのだ。その言葉の意味や背景や関連する事柄が人びとの問
題意識になっていくきっかけをつくることができる。
 労働組合やそれに関連する言葉は、残念ながら、家庭や学
校教育のなかでひんぱんに登場しているとは言いがたい。言
葉とは、文化そのものである。労働組合の言葉に出会わない
ということは、その文化に出会わないということでもある。
だから、労働組合に対して「異質さ」を感じるのはやむをえ
ない。出会う機会ふれる機会が圧倒的に少ないのだから。
 とくに、団結、たたかい、ダンコー(団体交渉)など、労
働組合の「言葉」には、日常会話にあまり登場しない、独特
の響きがある。こういう言葉に出くわしたことのない人にと
っては、「ちょっと違和感」をもつのは当然のことだ。
 言葉を言い換えても構わない。「団結する」を「ひとつに
なる」「手をつなぎあう」としても、間違いではない。でも、
「団結」という言葉をやっぱり大事にしたい、とも思うし、
使ってほしい、とも思う。

 たとえ「古くさい」と言われても、「団結する」という言
葉がなくならないのは、その言葉を使わざるをえない人たち
がいるからだ。会社の経営者は、「団結してがんばろう」と
いう言葉を職員に対して命令的に使うことはあっても、「自
分の生き方」として使うことはない。
 団結する、という言葉を、自分の生き方として使うのが、
「労働者」と呼ばれる人たちだ。なぜなら、労働者にとって
は、団結することが、自分や仲間の生活、自分たちの職場の
働き方を改善していく、ほとんど唯一の方法だからだ。
 もちろん、「団結だ!」 と叫べば、職場の仲間がひとつに
なるかといえば、そうではない。団結をつくり出すためには、
日々のねばり強い努力が必要であり苦労多き営みだ。かなめ
は、「要求」にある。一人ひとりの苦難に心を寄せ、それを
形にし、「みんなの問題」として練りあげられるかどうか。
ここが一番難しく、でもやりがいのあるところだ。
 そして要求をかかげ団結することの中に、「たくさんの人
間らしさの発現」がある。だから、「団結」という言葉は、
いまもなお、世界中の労働者によって使われ、生き方となっ
ているのだと思う。だから、誇りをもって「団結」という言
葉を使えばいいと思う。それは、かならず、次代を担う若者
たちにも、受けとってもらえる言葉である。この言葉には、
歴史がつまっている、先輩労働者たちの喜びも悲しみも背負
っている言葉なのだ。

 労働組合の誕生はイギリスのパブからであったと言われて
いる。そこには、「話しあう自由な空間」があった。話しあ
いによって、どんどん「共通の言語」ができていったのだと
思う。労働者が、労働者の言葉を取り戻し、にぎり直すには、
日本の労働運動の内外に、「話しあう自由な空間」をつくり
だせるかどうか、だと思う。もちろん、新しいたたかいの中
から、これまでなかったような新しい言葉も生み出されてく
るに違いない。
 言葉をにぎり、言葉で考え、言葉で団結する。労働運動の
過去・現在、そして未来も、この原則は変わらないだろう。