長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

ハチドリのひとしずくは、要求のハードルが低い

以前、『ハチドリのひとしずく』という絵本(?)が
話題になったことがありました。

f:id:benkaku:20151210143846j:plain

まあ、上のような話なんですが、
どうしても違和感というか、「ちがうだろ」という感覚を
話題になった時から、ぬぐえませんでした。

素朴な疑問として、
「それで、森の火は消えるのか?」というのが
まずあります。

たとえ孤独であっても、冷笑されても、
自分のやるべきことをやる。これは尊いことです。
そして勇気の必要なことでもあります。

でも、森の火を消すには、ハチドリ1羽の力では
無理だということは客観的にみてわかります。
この物語では、「仲間を呼んだ」とか、
「笑っている森の仲間を説得する努力をした」ということは
描かれません。自分だけで黙々としずくを運ぶのです。

それで、火は消せるのでしょうか?


これって、労働組合とか、社会運動でも
同じだと思っています。
たとえ冷笑されても、1人でやるべきことをする、
行動する。これはとても意義のあることです。

でも、なんですよね。
森の火と同様、相手(資本・権力)は強く巨大です。
1人では立ち向かえないのです。

1人での行動は、ある意味、ハードルが低い。
(自戒もこめて、あえてそう表現したいと思います)

「伝えあいによって、連帯・協力する仲間を増やす」こと、
こちらのほうがハードルが高い。

ぼくがマルクスを信頼しているのは、
マルクスは、ぼくらに対する要求がものすごい高いのです。
「万国の労働者よ、団結せよ!」ですよ。
「資本論をたたかいの武器にせよ」ですよ。

自分が納得し、行動を始める。
これは比較的できやすいです。
でもいちばん難しいのは、身近にいる人と一緒に行動する、
学びあう、伝えあう、ということでしょう。

安保法制の問題で、
街頭での民主主義はたしかに高揚したと思います。
でも、ぼくもふくめて、身近な人を誘って参加できたかというと、
まだまだそれはできていないのではないかと思います。

職場でも地域でも家庭でも、
身近にいる人に仲間なってもらうということが、いちばん難しい。

団結って、そういうことですよね。
考えの同じな人、好きな人どうして集まる。これは限定的団結です。
嫌いな人とでも一緒に行動できるようにならなきゃならない。
労働者って、ほんと、いろんな違いばかりですから、
反目しあったり、人間関係もたいへんです。

でもマルクスは、労働者は団結せよ!なんですよ。
それは、マルクスが科学的視野を根拠に、
ぼくたちのことを深いところで、信頼しているからです。
だから要求が高いわけです。
「そういう可能性を秘めているだろう。
できるだろう。きみたちなら」というわけです。

ハチドリは、笑っている森の動物たちに、
「一緒に団結して火を消そう」と呼びかけません。
いちばんハードルの高いことをしていません。
森の動物たちを信頼していないように見えます
(これには異論もありそうですが)。
だからぼくは違和感をぬぐえないのです。
黙々と、じゃだめなんですよ。伝えあいの言葉を発しないと。

自分だけがわかっている、自分だけが行動する、
それでは森の火も消えない、社会も変わらない。

「団結」というもっとも難しいことに挑戦し続けて
いかなくてはならない。
身近なところで、学びあい・伝えあいをつくろう。
そのために自分も成長し続けよう。


・・・ということを、
今夜の89期岡山労働学校の最終講義の最後で、
しゃべろうと思っています(笑)。