長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

社会権とは何か―講義要旨

(先日の社会権講座1回目の講義要旨です。
5400字ぐらいあります。あくまで要約です)

 はじめに、なぜこの講座を開こうと思ったのかというと、やはりコロナのことが念頭にある。コロナは社会の様々な問題をあぶり出し、鮮明にしたと言われるが、その大きなひとつは、日本の社会権の脆弱性だ。具体的には2回目の講義で話をするが、生存権を中心とした、人間らしく生きる権利がこれほどはく奪されているのに、自己責任論の影響もあり、政府への要求・異議申し立ては全体として弱く、自己防衛でなんとかやっている現状だ。あらためて、基本的人権のなかでも、中核に位置するはずの社会権のそもそもや意義を学び直していく講座にしたい。

 社会権の一般的説明をみていくまえに、前提として日本国憲法の早わかり解説をしておく。憲法は前文と103条で構成されているが、最初から読むのではなく、憲法が自己紹介をしているところがあるので、そこから読んで理解をしてほしい。自己紹介しているのは、10章「最高法規」の3つの条文だ。私は「3つの自己紹介」と言っている。1つ目の自己紹介である97条は、この憲法の目的が書かれている。人権保障だ。人権は奪われやすいものだが、人類の先輩たちが闘いとってきたものだということも書いてある。2つ目の自己紹介である98条は、憲法がこの国の最高法規だと規定している。憲法に反する法律はつくれないし、行政の仕事は効力を有しませんと書いている。ではなぜ憲法が最高法規なのか。その根拠は何か。それは、憲法が人権を保障するものだからだ。人権とは、すべての人が自分らしく人間らしく生きるための自由や権利だ。社会関係のなかで、人権以上の約束事はない。だから憲法が最高法規なのだ。3つ目の自己紹介は99条。憲法を守らなければいけない人たちが名指しされている。天皇、摂政、国務大臣、国会議員、裁判官、公務員だ。今日の参加者のなかに、ここにあてはまる人はいない。つまり憲法を守る義務はない。名指しされている人の共通項は、国家権力担当者という点だ。立法、行政、司法という3権分立のなかで、それを担う人たちに、憲法という枠をはめている。私たちは誰でも権力担当者になれる可能性があるが、約束事があるのだ。憲法を守って仕事をします、という誓約である。国民は、権力担当者がきちんと憲法を守っているのかチェックしたり、声をあげたり、憲法どおりの仕事をする人を選ぶ責任がある。そうした不断の努力がなければ、人権は簡単に奪われてしまうのが歴史の教訓だ。

 憲法の目的は人権保障だが、具体的には第3章「国民の権利及び義務」の31ある条文が、基本的人権の規定になっている。憲法の目的はここなので、まずこの3章を読み込み自分のものとすることが必要だ。あとの章や条文は、必要があれば読めばいい。3章が憲法学習の中心にならないといけないと思っている。

 基本的人権の条文1つひとつには、それを闘いとってきた人びとの歴史がある。そして、自由権と呼ばれる「近代的な人権」と、社会権と呼ばれるおもに20世紀に勝ち取られてきた「現代的な人権」がある。いわば、成り立ちや基本的性格が違うのである。だから、3章も歴史を学ぶことで立体的にみえてくる。自由権とは、「国家からの自由」と言われる。対して社会権は「国家による自由」とも言われる。どういうことだろうか。「社会権とは」でネット検索していたら、広島県発行の人権啓発冊子「思いやりと優しさのハーモニー」の社会権解説がヒットした。みてみるとかなり“まとも”で大事な内容であるので、これを紹介したい(別紙資料で解説。その部分は省略)。

 大事なポイントはおさえているが、考えてみるポイントもある。1つ目は、この冊子の説明では、社会権は「社会的・経済的弱者の保護」のためとなっているが、本当にそういう理解でいいのだろうか。そうした人たちのためだけの規定だろうか? そもそも弱者とは? という点。2つ目は、「国家による自由」とあるが、国家(の意思)を形成し、動かしているのは誰なのか? という問題。3つ目は、社会保障の拡充とか、教育の無償化とか、そういう話になると必ずつきまとう議論が、「財源はどうする?」というものだ。財源に限りがある以上、社会権にも限界があるのでは? という疑義だ。3回目の講義で財源論には詳しくふれたい。

 日本国憲法の社会権規定をみてみよう。25条は生存権(私は生活権と言っているが)。社会保障、公衆衛生などの国家責任が明記されている。26条が教育権(学習権)。義務教育の整備と無償規定。27条は勤労権(労働権)だ。勤労条件の法定主義。児童労働の禁止。28条が団結権(労働基本権)。労働三権とも呼ばれる。それと最近では24条も社会権的な性格が強いと言われている。両性の平等と、個人の尊厳に立脚した法整備は国家の積極的介入が必要であるということだ。

 

 社会権が獲得されてきた歴史を学ぶと、文面だけでは見えてこないことが見えてくる。なぜ社会権が必要だったのか、という必然性だ。まず、市民革命期に生まれた自由権の意義と限界をおさえる。商品経済が発展し資本主義経済が形成されると、自由な商取引が重要になる。特定の人間だけが特権をもつ封建的な身分制や、農民を土地に縛りつける制度は自由な経済活動をさまたげる。ここから、「自由」が主張され、封建的な身分制の否定としての「平等」が主張され、労働をになう人間の「生命」の権利が主張された。そして土地や商品に対する「所有権」が主張された。人権論の現実的根拠は、資本主義経済の発展にあったといえる。そして圧政と支配への抵抗、そこからの解放を第一義的かつ中核的なものとして要求された。それが市民革命において「人権」として宣言され、憲法にも明記され法的な権利になっていく。「かけがえのない個人」の尊重を樹立することで、歴史を大きく前進させたことは間違いない。「生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利」(アメリカ独立宣言1776年)など。

 ただし、市民革命期の「自由」の主体から、たとえば女性や黒人などは最初から排除されていた。また、資本主義を生み出し推進するために、財産権(所有権)の絶対擁護が大前提となり、「営業の自由」、その結果としての無制限の「搾取の自由」を保障した。一方、資本家の搾取のもとで労働者は長時間労働や低賃金を事実上強要され、人権は「絵に描いた餅」となった。こうした強弱関係を野放しにしておくと、弱者の人権が奪われていく。だから国家の介入が必要になるのだ。たとえば「居住の自由」を考えてみればわかるが、どこに住むか、どんな家に住むかは自由なのだが、資本主義では住居も商品となっており、お金のあるなしで格差が生まれる。お金がなければ、住むことに関する自由は保障されない。最悪の場合、ホームレスとなる。居住の自由とは、お金のある人だけの人権になってしまうのだ。だから国の責任で住宅の保障をしなければならない。

 自由権だけでは、一部の人の人権しか保障できない。こうした自由権の限界から、社会権が獲得されてきた。中心は労働者・労働組合のたたかいだった。労働者は団結して、資本家に対して賃金や労働条件の改善を要求しはじめた。「団結する自由」を獲得するところから社会権は始まった(→28条)。18世紀から19世紀にかけての長い闘いの積み重ねがあり、イギリスの場合、1799年団結禁止法、1824年団結禁止法撤廃、1871年労働組合法、1906年労働争議法などの流れが確認できる。

 さらに労働者たちは、個別の資本家とたたかうと同時に、法制度の確立を求めた。19世紀前半から、団結権獲得のたたかいと同時並行で、人間らしく働くルールである勤労権(労働権)を獲得する労働者・労働組合のたたかいも開始された(→27条)。労働時間を制限する工場法の獲得、児童労働の制限、工場監督官制度の設置。やがてアメリカの労働者たちから始まった(1886年)8時間労働制を求める世界的たたかい(メーデーの期限)。ロシア革命(1917年)で8時間労働制が制定、1919年にILO(国際労働機関)の創設、1号条約で8時間労働を採択。さらに反ファシズムとのたたかいのなかで、フランスでは長期有給休暇(バカンス)や最賃制が確立されていった。

 勤労権を獲得するたたかいのなかで、教育権(学習権)も獲得されていった。年少の子どもたちを労働から解放し、誰もが無償で義務教育を受けられる教育権を確立していく(→26条)。1870年イギリスの教育法など。日本は1872年の学制公布。

 最後は人間らしく生きる権利:生存権(生活権)の獲得だ。20世紀前半には、社会保障を確立するたたかいが展開された(→25条)。ロシア革命のなかで社会保障制度の実現、ワイマール憲法(1919年)で初めて憲法に生存権の規定。アメリカで1935年社会保障法。1942年イギリス、ベヴァリッジ報告で社会保障制度の体系化。1947年日本国憲法25条。こういう流れだ。

 また、女性の人権を実質化するために、1979年国連女性差別撤廃条約などの成立、各国での批准も大きな力になった(→24条)。

 お気づきかもしれないが、社会権獲得の時系列をみると、日本国憲法での順番とは逆で、28条、27条、26条、25条、そして24条という流れになる。歴史を学ぶとこういうことも見えてきて、おもしろい。そしてもういちど確認するが、こうした社会権を獲得する中心は、労働運動や様々な諸運動の力だった。そこが弱くなっているのも、今日の社会権をめぐる大きな課題だ。

 また、世界人権宣言(1948年)と、社会権規約(1976年)の社会権規定をみると、日本国憲法にはない規定、たとえば「自由に社会の文化生活に参加し、芸術を鑑賞し、及び科学の進歩とその恩恵とにあずかる権利」(世界人権宣言27条)や、「自己及びその家族のための相当な食糧、衣類及び住居を内容とする相当な生活水準についての並びに生活条件の不断の改善についてのすべての者の権利」(社会権規約11条)という居住の権利規定などもある。人権というのは発展し豊かになるものなので、日本国憲法と同時に、こうした国際的な到達からも学んでいく必要がある。とくに社会権規約については日本も批准しているので、国内で実施していく政府の責任が生じている。

 さて、今日の最後のポイントである、「社会権の本質」を考えていこう。一般的な説明から、もう少し踏みこんでいく。その特徴のひとつ目は、社会権はすべての人の人権を、実質的に保障する社会を切り拓く、ということだ。資本主義社会での「自由」すべてを野放しにしておくと、強者と弱者との関係性のなかで、人権が奪われたり保障されない人が必ず出てくる。資本主義社会では、市場で役に立つ「労働力商品」を販売できる人の生活やリスクは担保される。とくに日本では、たとえば労働力商品を長時間販売できる正規職員であることと、年金や医療などの保障が紐づけされている。市場価値と人権保障がバーター関係になっているのだ。ここに商業的優生思想が入り込んでくる。強者(企業や富裕層)の富を再配分することですべての人の生存権を保障する物的基盤をつくりつつ、強者の自由権の一部を制限することで社会権は成立する。自由権は、それだけではすべての人の自由を保障しない。社会権は、その制限性を突破し、すべての人の人権(中核は生存権)を実質的に保障する社会を切り拓くのだ。

 2つ目に押さえたいのは、社会権が実現してこそ、自由権も実質化する、という点だ。たとえば、政治へのアクセスという基本的人権も、生活や雇用が安定してこそ、実質化する。教育からの排除、また貧困であるほど、情報や民主主義的場から疎外され、主権者として権利行使できなくなる傾向がある。「職業選択の自由」も、失業しても生活が保障される社会でこそ実質化する。「強制された契約」からの解放ができる。法の下の平等も、社会権の裏づけがあってこそ本物になる。たとえば労働法がより人間らしいルールとして強化されれば、非正規労働者にみられる不平等や差別は解消する。社会権がなければ、自由権は自由を担保せず(抽象的ヒューマニズムで終わる)、実質化しない。

 3点目に重要なのは、国家による積極的介入(国家を使って人権を守る)だ。具体的には法による規制と、富の「再配分」である。たとえば、労使関係での国家による介入をみてみると、使用者に対しては労働法(27条の要請)で「契約の自由」を制限する。そして労働者には労働基本権を保障し(28条の要請)し、労働者を集団としてエンパワーメントする。労働条件交渉の当事者として対等になれるように、国家が積極的に肩入れすることを求めている。ところがこれも綱引きがあって、使用者、資本家階級はその代表を国会に送り込み(自民党)、労働法制の改悪を次々に行なってきた。労働基本権も日本ではたとえば公務員の争議権をいまだに剥奪している。国家介入を弱めることで、強者はより自由になる。そして弱者は自己責任論で声を奪われる。これが現状になっている。富の「再配分」の理論的根拠と現実性については、3回目の講義で確認していきたい。

 次回(8/21)は、「コロナ禍のもので~人権の危機とその背景」である。社会権が剥奪されてきた日本社会がコロナ禍のなかでどうなっているのか。そして自己責任論を原理的に批判してみたい。