長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

職住分離による「疎外」


今夜の科学的社会主義の人間論講座2回目では、
マルクスの「労働の疎外」論を、
ちょっと私なりに今日的に加工・整理して、話をしようと思っている。

いろんな視角を考えているのだが、
資本のもとで働くことによる疎外のひとつに、
「職住分離による疎外」というのがあるように思う。


いまの時代ほど、「働く場所」と「住む場所」が、
離されてしまったことはない。
通勤時間は、30分なら短いほうで、
都会なら1時間などざらである。
(職住分離は災害時に弱いことも、東日本大震災で経験した)

それを可能にしたのは、資本主義社会で飛躍した
網の目のように発達した交通網(電車、バスなど)と、
これまた網の目のように発達した自動車道路だろう。

しかし、
「労働者を効率的に職場(生産手段のもと)に移動させる」
「商品を効率的に運ぶ」
ことを優先した都市づくり、街づくりは、
当然ゆがみが生じてくる。


そのいちばん顕著なあらわれが、
人間が住む場所がどんどん都市の郊外へ押しやられる問題だ。
(利潤を生みにくい現在の日本の地方では資本そのものが
少なく、雇用の場が不足し、過疎化という問題がある)

岡山市内でも、中心部になると、商業ビル・商業施設が
集中し、古い家を立ち退かせ、空洞化を引き起こしている。
日本の都市づくりは、まず道路整備だ。
地域のコミュニティ・文化が優先されるということがない。
地価は高く、中心部でマイホームをもつなど、
ふつうの労働者では、なかなか難しくなっている。


また、労働者は、昼間(労働時間中)はまったく家にいない。
それは、住んでいる地域にいないということとイコールある。
おまけに日本のような長時間労働が蔓延している社会では、
「住宅」は、身体的な労働力を回復させる(ねぐら機能)だけの
場所になってはいないだろうか。

ほんらい、人間は、
住んでいる地域のコミュニティのなかで育ち生き、
地域の人びとのなかで互いに助けあい支えあいながら、
文化を育て継承し、しあわせになる存在だ。

人間は、ローカルな存在なのだ。
それでじゅうぶん、幸せになれるはずだ。

しかし、その地域にいる時間、
地域での人とのふれあいの時間を、
職住分離は奪っているように思う。


もっといえば、たとえば資本のもとで
働く労働者にとっては、「転勤」という問題がある。

労働者は「働く場所」を自由に選べることを制限された存在である。
「こっちで働いてくれ」と転勤の辞令が出れば、
従わなければならない労働者が圧倒的ではないだろうか。

資本は、社会的に強制されるのでなければ、
労働者の健康と寿命に対し、なんらの顧慮もはらわない、
とマルクスは言った。
おなじように、
「その労働者(家族)の住んでいる地域の人間関係・文化の蓄積」、
になんらの顧慮も払わないのが資本だと思う。


労働者の、働く場所と住む場所がこんなに離れてしまった日本。
それは、
「地域に根づきながら生きる、という人間本来の姿」
からの疎外、ではないだろうか。