2013-03-22 職住分離による「疎外」 メモ 今夜の科学的社会主義の人間論講座2回目では、マルクスの「労働の疎外」論を、ちょっと私なりに今日的に加工・整理して、話をしようと思っている。いろんな視角を考えているのだが、資本のもとで働くことによる疎外のひとつに、「職住分離による疎外」というのがあるように思う。いまの時代ほど、「働く場所」と「住む場所」が、離されてしまったことはない。通勤時間は、30分なら短いほうで、都会なら1時間などざらである。(職住分離は災害時に弱いことも、東日本大震災で経験した)それを可能にしたのは、資本主義社会で飛躍した網の目のように発達した交通網(電車、バスなど)と、これまた網の目のように発達した自動車道路だろう。しかし、「労働者を効率的に職場(生産手段のもと)に移動させる」「商品を効率的に運ぶ」ことを優先した都市づくり、街づくりは、当然ゆがみが生じてくる。そのいちばん顕著なあらわれが、人間が住む場所がどんどん都市の郊外へ押しやられる問題だ。(利潤を生みにくい現在の日本の地方では資本そのものが少なく、雇用の場が不足し、過疎化という問題がある)岡山市内でも、中心部になると、商業ビル・商業施設が集中し、古い家を立ち退かせ、空洞化を引き起こしている。日本の都市づくりは、まず道路整備だ。地域のコミュニティ・文化が優先されるということがない。地価は高く、中心部でマイホームをもつなど、ふつうの労働者では、なかなか難しくなっている。また、労働者は、昼間(労働時間中)はまったく家にいない。それは、住んでいる地域にいないということとイコールある。おまけに日本のような長時間労働が蔓延している社会では、「住宅」は、身体的な労働力を回復させる(ねぐら機能)だけの場所になってはいないだろうか。ほんらい、人間は、住んでいる地域のコミュニティのなかで育ち生き、地域の人びとのなかで互いに助けあい支えあいながら、文化を育て継承し、しあわせになる存在だ。人間は、ローカルな存在なのだ。それでじゅうぶん、幸せになれるはずだ。しかし、その地域にいる時間、地域での人とのふれあいの時間を、職住分離は奪っているように思う。もっといえば、たとえば資本のもとで働く労働者にとっては、「転勤」という問題がある。労働者は「働く場所」を自由に選べることを制限された存在である。「こっちで働いてくれ」と転勤の辞令が出れば、従わなければならない労働者が圧倒的ではないだろうか。資本は、社会的に強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命に対し、なんらの顧慮もはらわない、とマルクスは言った。おなじように、「その労働者(家族)の住んでいる地域の人間関係・文化の蓄積」、になんらの顧慮も払わないのが資本だと思う。 労働者の、働く場所と住む場所がこんなに離れてしまった日本。それは、「地域に根づきながら生きる、という人間本来の姿」からの疎外、ではないだろうか。