長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

被爆の実相を学ぶことが出発点に

きのう(18日)の夜は、おかやまの若者がつくっている
PeacePieceおかやま(PPO)という平和グループの学習会へ。

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「原水爆禁止2013世界大会事前学習会」ということで、

DVD上映と、私の話と、交流、という内容。

 

私は30分ほどで、

この活動の意味と核廃絶に向けた情勢についてポイント解説を。

何よりも、被爆の実相を学ぶことを

大切にしてほしいことを強調しました。

それが出発点であり、活動の動機になりますから。

 

 

 

DVDは、NHK「その時歴史が動いた」

3000万の署名、大国を揺るがす・第5福竜丸が伝えた核の恐怖~

を見ました。

 

以下は、みながらツイッターでつぶやいたものです。

 

1954年3月1日にマーシャル諸島ビキニ環礁での

アメリカの水爆実験で被曝した第5福竜丸。

乗組員は死の灰をあびる。マグロからも高い放射線量が出る。

 

日に日に悪化していく被曝した第5福竜丸乗組員の症状。

ニュースでも大々的に取り上げられ、恐怖がひろがった。

食卓からは魚が消えていった。

 

放射能への恐怖。「安全に暮らしたい」。

まず立ち上がったのが、女性たちだった。

 

1954年3月1日の水爆実験により、

放射能をふくんだ灰が気流に乗り、

日本にも放射能の雨が降る(5月~6月)。

水爆実験は続いていた。

「深呼吸もできない」。女性たちは、署名活動をはじめる。

 

女性たちの署名活動は、各地で自然発生的にひろがった。

ふつうの女性たちが政治的な行動をおこすのは、

戦後はじめてのことだった。

 

東京の杉並区の女性たちは、わずか2か月で、

当時の杉並区の人口の7割、

27万人分の「原水爆禁止」の署名を集める。

そして、署名のうねりは、全国へと。

 

1954年の8月までに「原水爆禁止」を求める署名は

450万人分集まる。そして、8月末、第5福竜丸の

久保山愛吉さんが亡くなる。

「原水爆の被害者は、私を最後にしてほしい」との言葉を残して。

 

久保山愛吉さんの死を受けて、

署名運動はさらに大きな広がりをつくりだし、

1955年の8月までに、さらに署名を集めて広島に持っていこう」となる。

さらに、その動きは世界にも広がっていった。

 

そのあいだにも、アメリカは水爆実験を続けていた。

「名前を書くことで対抗しよう」「意志を示そう」と、

さらに日本中で署名運動が。

1955年8月6日。第1回原水爆禁止世界大会で、3000万人を越える署名が。

 

3000万人という数は、当時の日本の成人人口の半数以上。

そして、世界では6億人を越える署名が集まり、

大国の核政策、核実験を大きく制限していく力になっていく。

署名の力。国際世論の力。