これも過去のブログ記事から。
『上田耕一郎対談集』(大月書店、1974年)メモ。
「ぼくは戦争中、カントばかり読んでいて、『純粋理性批判』を
ドイツ語で読んだり、カントの倫理学関係の本なども相当あ
さって読みました。なぜ、よくもわかりもしないのに、カント哲学
に打ち込んでいったかとうと、ひとつは、思索することの厳密さ
というものがあって、正確なものを求めていた気持に合ったの
ですね。もうひとつは、きわめて倫理的なんですよ、彼の哲学
は。当時、戦争の問題と自分の問題を考えると、最後は認識
の問題よりも生き方の問題であり、倫理の問題になってきた
んですね」(8P)
「『自然弁証法』では、自然は実在であるということからはじま
るでしょう。われわれ理科の学生というのは、実験するとき、
自然を実在だと思わなければ実験できないわけですよ。しか
し、哲学を考えるときは、そういうこととは別のことを考えてい
る。ところが『自然弁証法』というのは、まことにきっぱり、自然
は実在であるという。ぼくは観念論の認識論をやっていたから、
なにが実在であるか、わからなかったけれども、とにかく、疑う
ことのできない真理に触れているのだという感じがありました」(8P)
「そういう市民運動というのは、当時のとりくみとしては珍しい
ものだったし、成果も大きかったんだけれども、それを理論的
にまとめて、どこかに発表するとかいう仕事をしなかった。やっ
ぱり、それをしないと全体の運動にならない。運動の経験とい
うのは、本当にそのなかから教訓を引き出して一般化する、
理論化する必要があります。それではじめて全体の教訓、財
産になるわけで、進んだ経験をどこかでやっていても、ただそ
れだけだったら、それだけのことに終わっちゃうわけですね」(23P)
「論争というのは真剣勝負でね、書いたことにはすべて責任を
とらなければならないし、誤ったことを書けばかならずやられる
しね。深く、多面的に考えぬくことになる。鍛えられますよ。だか
ら、いいことだと思いますね。論争というのは」(24P)
「ぼくが感じていることの一つは、創造的な理論活動ということ
になれば、どんな問題でも新しい問題と格闘しなければ意味
がないということですね。そうしてはじめて、つぎこんだエネル
ギーが、マルクス主義の理論戦線に、小さな石であってもつけ
加えることになり、小さな前進であっても運動に貢献することに
なるわけですから」(26P)
「もう一つ理論活動の問題でいつも考えることの一つは、問題
の系譜を自分のものにすることです。レーニンが、理論家とい
うのはその問題の系譜をよく知っていることが非常に大事なん
だと言っているのがあるんですよ。その系譜のなかではじめて
その問題に接近する態度と方法もわかるし、歴史的なパース
ぺクティブも出てくる、問題の重さというものもつかまえられる。
だから、政策活動でも、理論問題でも、ある新しい問題があっ
たときに、それは今までのマルクス主義の理論史や運動史、
広くいえば国際的にも、それから日本の運動史、理論史のな
かで、どういう理論的、あるいは実践的系譜をもっていたかと
いうことをまず調べますね」(26P)
「ぼく個人の場合をいうと、自分が感じるもの、考えるもの、疑
問をいだくもの、これを非常に大事にしなければならないと思う。
自分が感じたものを主観的に大事にするというのではなくて、
それが、ある客観性がある場合、それを追求する責任がある
ということです。ただ、そういうアンテナや触覚が正しいもので
あるかどうか、運動の要請にこたえたものであるかどうかという
ことが問題ですが、そういう人間が、たとえばきみのいったよう
な、大衆の生活にも、運動の局面にもいつも敏感に理解もし、
感じもできる立場に身を置いていないと、正しいアンテナが働か
なくなる。それから、党本部のなかだけで仕事をしていると、よ
ほど自覚をしていないと一般の人たちの思想や感情と離れる
危険もある(笑)」(27P)
「教育も問題では、『科学と思想』四号の吉野源三郎さんと堀尾
輝久さんの対談の中で“なるほど”と思ったことの一つなんです
けど、国民の学習権というのは、具体的には子どもと青年の権
利のこと、おとなとはちがった子ども、古い世代をのりこえる新
しい世代の権利を保障することだというんですね。教育は次の
世代をにないうる人々をつくることでしょう。今の世代を乗りこえ
る人間にならなけりゃならん。そうだとすると、本当の意味での
国民の教育権、学習権とは、前の世代を乗りこえうるような能
力を、新しい世代が身につける権利でもあるわけです。もしもそ
れを古い世代が自分の枠のなかにこどもの教育を押しこめるこ
とがあれば、それはこどもの権利を侵害することであり社会の
発展そのものを押しとどめることにほかならないという問題にな
るわけで、深い問題だなと思いましたね。
たしかにおとな、古い世代が新しい世代を教育するのだけれ
ども、教育とは、われわれを乗りこえる力を新しい世代にもって
もらうことなんだというするどい自覚をもって、それこそ民主主義
的ナ教育をやらないと世の中は発展しない」(35P)
「『では民主連合政府はいつできますか』という質問が
くると、『あなたがたが、あなたがたの職場や学校、町
や村で多数を結集できたときです』とぼくはいうんです。
自覚的民主勢力がいるところでまず多数をとるぐらい
にならないと民主連合政府などできっこないんですね。
そういう意味でもこれは共同の事業であり、国民の政
府なんだということです」(40P)
「それぞれの人が、どこで政治にぶつかるかというと、
生活がちがうようにぶつかり方もさまざまです。たとえ
ば砂川の農民が基地拡張問題にぶつかると、あれだ
けの闘争をやりました。自分の生活と社会や政治が
どんなに密接につながっているかということを知るの
は、体験と勉強なんだけれども、そこのつながり方と
いうのが、実際の生活のなかでは幕におおわれてい
てわかりにくくなっています。その幕を自分でとったり、
人がとってくれたり、幕をとらざるをえない事件にぶつ
かったりということで青年の目ざめがすすんでゆく。そ
の機会が今の社会は非常に多いといえます」(84P)
「まわりの人たちの多数を獲得するというけど、これは
たいへんですね。一人ひとりの人間は、それぞれの歴
史をもち、それぞれの思想をもち、それぞれの家庭を
もち、希望をもっているわけだから、そういう個性をもっ
た、それぞれの人の思想を変えるという仕事は、それ
こそこちらも真剣にとりくまないとできないことです。
民青は勉強しないとか、民青にはいるとどうも大学も
落ちそうだとか、これではだれも民青へきませんね(笑)。
民青にはいると政治的な視野がひろくなるし、人間的に
も信頼があり、幅がひろくなる、たたかいの先頭に立っ
て立派に活動するだけでなく、勉強もできる、知識も深
いと、やっぱりああいう人間にならなきゃいかんという
ふうに、民青の活動をすすめていくことが大切だと思い
ます。(中略)労働組合運動でも、そういう政治闘争でも、
それから生活を守る問題でも、仕事をするうえでも、み
んなに信頼される活動家にならないと、ほんとうに一人
ひとりの人を変える仕事はできません。
ですからそういう仕事の先頭にたつわれわれは、なか
なかかたいへんなことになる。勉強もしなきゃならないし、
たたかわなければならない。しかし、同時にわれわれだ
けの仕事じゃなくて、いまの世の中が大きく変わってき
つつあるし、いろんな矛盾があわられているわけだから、
その一つひとつの問題を深くとらえて、はじめにいった
ように、それぞれの青年の生活の目標や生きがいが、
じつは日本を変える仕事とむすびついているということ
を、ことばじゃなくて、深くわからせる仕事ですね。そう
いう厚みのある闘争をぜひ組織していってほしいと思
います(117~118P)
「ほんとうに言論と思想の力が必要で大事です。現在
の革新統一戦線をつくる、民主連合政府をつくる、日
本の世の中を変えるとかいうのも、けっきょくはやはり
言論と思想の力、理論の力、そういうものを主体とした
運動が媒体になるでしょう。その媒体が、やっぱり『赤
旗』というわけです」(237P)
「視聴覚の媒体機関というのは活字よりも即効性があ
る。しかし私たちの理論を、体系的にわかっていただく
というためには、どうしても活字媒体でなければなりま
せん。私たちは、これを基本にすえたいと思います」(239P)
「マルクス、エンゲルスのいろんな文献を読んでいくと、
ぼくが少なくともそれまでに読んだ、いろんな哲学書や
思想書と比べて、人間に対する要求がいちばんきびし
いのです。とにかく、その社会の矛盾を科学的に分析
し、見つめて、それを実際に変革するためにたたかう
ことを、人間に要請する理論、哲学であるわけです。
そういうことは、いろいろといままで若い頭で読んだ本
と比べて、いちばん要求するものも高いし、いちばん
包括的な理論だと、抗しがたい力でつよく印象づけら
れました」(245P)