最近読み終えた本。
『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』
(想田和弘、岩波ブックレット、2013年)
「消費者民主主義」という指摘に、なるほどと。
労働組合活動でも執行部がサービス機関で、
一般組合員が消費者的である傾向もあるのかなあ。
著者が言うように
1人ひとりの「不断の努力」の積み重ねしかない。
『ベアテ・シロタと日本国憲法ー父と娘の物語』
(ナスリーン・アジミ、ミッシェル・ワッセルマン著、
小泉直子訳、岩波ブックレット、2014年1月)
「母は国籍に縛られない真の国際人でしたが、母の心は
いつも日本お日本の皆様とともにありました。死の直前まで、
ベアテがいかに日本の皆様を思い、全力を尽くしたかを
お話したいと思います」(「ベアテ最後の日々」)
これは、日本国憲法草案づくりに関わった
ベアテ・シロタ・ゴードンさんの娘さんの二コル・ゴードンさんの言葉。
本書に収録されている二コルさんの
「ベアテ最後の日々」は、まっさきに読んだ。そして、涙が出た。
これほどまでに強くあたたかい意志で、
日本と日本国憲法を考え、愛してくれていたベアテさん。
彼女の功績は、はかりしれない。
歴史に「もし」は禁物だが、
「もし彼女が日本国憲法草案づくり関わっていなかったら」と思うと…。
日本国憲法が「押しつけだ」という人たちは、その憲法の
下書きを書いた人たち(GHQ民政局の25人)の固有名詞は決してださない。
「占領軍が」「アメリカから」というのっぺらぼう的なものだ。
「木を見ずに森を判断するな」ということは、ここでもあてはまる。
いったいどんな人たちが、この日本国憲法の草案づくりに関わったのか。
とくに、人権条項を担当した、ロウスト、ワイルズ、
そしてベアテ・シロタがどれだけの情熱と強い意志をもって
基本的人権の条文を書き込んでいったのかは、
もっともっと知られてよい。
そして、そのことが知られるならば、
けっして「押しつけられた」とは言われなくなるだろう。
「平和への道は、人々が互いに理解しあうこと」という、
ベアテさんの確固たる信念にもとづいた生涯は、
いまも私たちへの励まし、そして未来への指針として、輝きを放っている。
『失われた手仕事の思想』(塩野米松、中公文庫、2008年)
著者が日本全国を訪ね歩き、職人への聴き取りを
してまとめた、「失われようとしている手仕事」。
また、「職人とはどういう人か」への考察など。
さいごのほうは、同じ主張がなんべんも出てきて
ちょっと読みづらい。
手仕事がどんどんなくっていっているのは、
つくりだされる生産物を選ばなくなった消費者と
その文化という側面が強調されていた。
それはたしかにそうだけど、
つまり資本主義の
大量生産大量消費への抵抗力の弱さだろうなあとも。
『子どもを伸ばす 手仕事・力仕事』(辰巳渚、岩崎書店、2007年)
「かわいい子には手伝いをさせろ」ですね。
10歳ぐらいまでに身につけさせておきたい
73の暮らしのなかの手仕事(つまり家事)を
ていねいに解説しながら、
「手をつかうこと」の大切さを説く。