長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

子どもの生活世界と子ども理解

「講座 教育実践と教育学の再生」読み始めました。

5冊シリーズ(たぶん)で、第3巻はまだ未刊ですが、

残りの4冊は購入しています。今月一気に読んじゃおうと思います。

 

で、とりあえず、1冊目

『子どもの生活世界と子ども理解』

(教育科学研究会編、かもがわ出版、2013年)

を読み終えました。

 

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編集委員は、田中孝彦さん、片岡洋子さん、山崎隆夫さん。

 

読みながら、子どもの“生活世界”の

現代的困難打ちひしがれながらも、

子どもたちに寄り添いながら子ども理解への姿勢を

あきらめない大人たちの実践に、心ゆさぶられました。

たいへん勉強になりました。

学習教育運動でも、おおいに役立てていきたいと思います。

 

 

 

以下、本書から、自分用のメモです。

 

 

「保健室は子どもの身体の状態が見える場所だ。身体は生活の

中でつくられる。だから、身体の訴えにていねいに耳を傾ければ、

おのずと生活が見えてくる。保健室は、そんな場所だ」

(山形志保「貧困と孤立のなかで生きる子どもたちの育ちと暮らし」、31P)

 

「本来、動物にとって『心地いい』感覚であるはずの食・睡眠が

そのような体験になっておらず、自身の身体の内部に『心地いい』

感覚を探り当てることがむずかしくなってしまっている子どもたちが、

他から与えられる『心地よさ』とは似て非なる『快』に依存するほか

なく、性的な刺激にのめり込んでいくことが多いのではないか」

(同上、33P)

 

「生活そのものがからだをつくり、いのちを支えているという

あたりまえのことが認識されにくくなっている」

(小倉和子「子どものからだと心を見守り、変化をとらえる」、56P)

 

「不登校支援の実践は、母親原因論と言うべきこれらの言説の

根強い影響との格闘の歴史として展開してきたと言ってよい」

(広木克行「不登校支援における親の子ども理解の重要性」、79P)

 

「ある少年がこう言ったと聞いた。『おとなには、二通りの種類が

あることを知った。理解させようとする人と、理解しようとする人と。』

私たちは後者の人になりたいと思う」

(春野すみれ「わが子の“嵐”と向き合う」、106P)

 

「思春期というそうでなくてもきつい自己のつくり直しのプロセスを

歩む危機と困難を抱える時期に、不安や混乱の日々のなかで

その作業に取りかからねばならないことを考えると、それはどん

なに険しい道のりだろうか。成長の過程で傷を負っているから

こそ、そのつくり直しのプロセスはさまざまな新たな困難をともなう。

問題行動ととれる言動も現在の自己の葛藤やどう生きたらいいか

という問いを表出している姿として受けとめたい」

(中込百合「生きもがく思春期の子どもにいかに向き合うか」、175P)

 

「私は生徒たちの文章を読むにつけ、こんなことを感じる。自分を

理解してくれる人とたった1人でいいから出会えれば、生徒たちは

生きていくことができる。何よりも居場所と人間関係の回復こそ、

このような生徒たちを立ち上がらせていく源になる。そして、自分の

人生を書くことによって、もう一度生き直すことができる。さらに、

問題を社会的に見つめられれば、自己責任論から解放され、自己を

肯定し、権利の主体となれる、だから、人は変わることができる、と」

(田中恒雄「自己形成史を綴り、もう一度生き直す」、190P)

 

「子どもたちに不足しているのは、ほんとうにスキルなのか、コミュニ

ケーション能力なのか。それらが不足して、さまざまなトラブルが生じて

いることは確かである。しかし、私たちが援助という観点から、ほんとうに

見据えなければならないのは、育ちの中でそれらを身に付けることを

保障されなかった子どもたちの生活そのものであり、『自己の育ち』の

ありようではないだろうか」

(筒井潤子「なぜ、今、自己の育ちに目を向けるのか」、233P)

 

「立ち止まり停滞したり、後ろ向きに退却してゆくことは人間の成長

過程についてまわるはずなのに、そうしたことを決してゆったりと

受けとめられたことがない」

(富田充保「『ひきこもり』経験と若者理解」、239P)

 

「『自分はどんな仕事に就き、どんな人とどんな生活を送り、どんな

おとなになっていきたいか』という人生設計の選択可能性が、先行

世代と比べたとき、大きく広がってきているという点だ。けれども、

可能性としては何にでもなれるという『選びながらおとなになる』

可能性の大衆化という事態は、言い換えれば、『今そういう人生を

送っているのはあなた自身の選択の結果だ』というプレッシャーと、

『何をモデルにしていいかわからない』という不安の普遍化でもある

のだ。つまり、自分で考え判断しなければならない自己責任の比重が、

かつてよりずっと増しているのだ。したがって、より長いスパンで見た

とき、個々の若者の自己選択の比重が、高まった分だけ、その人

自身の選択の結果だよというプレッシャーと、でも自分だけでは

どうしていいかわからないという不安が増大しやすい。そこで、ちょっと

したつまずきも大きな重荷として肥大化して見える。そうした可能性が、

以前よりずっと若者に覆いかぶさる時代状況になっている」

                                  (同上、246P)

 

「『可能性として何にでもなれるという「選びながら大人になる」可能性

の大衆化という事態』は、今やその可能性が大幅に掘り崩され縮減

してきている」                          (同上、247P)

 

「子どもは、さまざまな表現によって、自分が生きる時代や社会を

映し出し、その中で生きる自分自身を描き出す。子どもにとって、

表現とは、自己の内面に沸き起こる快や不快の感覚を外界に向けて

あらわす行為であるが、それらが非常に見えにくい子どももいれば、

外見上にあらわれない子どももいる。表現とは、こうしたサインも

含めて、書く・綴る・つぶやく・語るなどの言語表現があり、音を出す・

声を発するなどの音声表現、動く・歩きまわる・身振り手振りをする

などの動作表現、喜ぶ・笑う・泣く・怒るなどの感情表現がある。

それに加え、黙る・耳を塞ぐ・とどまる・固まるという閉鎖的な表現

さえある。今を生きる子どもの表現は、子どもが生存と成長において

快と不快をあらわしている行為であり、そうであればこそ、おとなは

その表現の読みとり手となる必要がある。複雑多様な子どもの表現も、

読みとり方によっては、子ども自身の成長要求と、未来を見据える

希望の胎動が感じられるはずである」

(渡邉由之「子どもを支えることば、自己の世界にふれる実践」、266p)

 

「今日では、子どもたちが教室で自分を表現しない、という声も耳に

するが、私は、立ち歩き、集中困難、居眠り、反復性の腹痛、いじめ、

不登校などは、現代的な子どもの表現のひとつであると考える。そして、

その表現の根本には、彼ら彼女らの生活上の困難があるとうに思えて

ならない。こうした“困難”の表現と、“声にならない・しない”という

サインとしての表現と、“生活感情・生活実感”の表現とを『まなざす』

ことのできる教育実践が必要である」          (同上、278P)

 

「子どもの言語に関わる実践は、単なる言語感覚や語彙を養うだけで

なく、子どもの感情や実感をあらわす『ことば』との出会いをもたらし、

子どもの人間形成に直接働きかけることがある」 (同上、279~280P)

 

「詩には、いわば詩的言語ともいうような世界がある。その世界は、

重たい現実とそれにともなう生活感情という逼迫した関係に、外の

空気を吹き込んで、日常をとらえる枠を広げるはたらきをもつ。子ども

にとって日常は簡単に変えられないとしても、自分を包み込む生活

感情に対して、あぁこういうことを自分も感じていたのだ、と認識を

広げることはできる。詩人のあらわす生活感情にふれ、日常のとら

え方を広げ、言語の世界で自己理解を深めること、これらは子どもに

少なからぬ安心を与えるのではないだろうか」   (同上、280P)