長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

岡山空襲の「なぜ?」を考えたい。

今日の午前中は、岡山市内の
高島九条の会での講師仕事でした。
「戦争法案を問う」という中身。1時間ちょいお話。

冒頭、6月29日は岡山空襲から70年の日なので、
私の問題意識を語ってみました。以下概容。

空襲の記憶を、1人ひとりの記憶から、
地域の記憶にしていくことが必要です。
これは欠かせないし、大事な仕事です。
でも、それだけでは足りないように思います。
「なぜ岡山に空襲があったのか?」「なぜ止められなかったのか?」
こういうことに答えられるようにするのが本当の
「歴史学習」ではないでしょうか。
それがないと、「戦争は悲惨だった」「今は平和でよかった」で
終わってしまう可能性もあります。
また、いまの情勢を考える上でも、「過程」や「背景」を知ることが大事です。
それは、次の戦争を引き起こさせない力になるからです。

空爆の歴史を少し紹介します。
「空から爆弾を落とす」ということが初めてやられたのは
19世紀末でしたが、空爆というものが作戦として本格化するのは
第1次世界大戦からでした。

第1次世界大戦が終わったあと、イタリア軍のドゥーエという人が、
戦略爆撃を理論化します(1921年頃)。そのポイントのひとつに
「空爆によって相手の戦意を消失させる。戦争を早く終わらすことが
できるので、結果的には人道的な作戦である」というものがあります。
各国の軍隊はこのドゥーエ理論をよく学んだようです。
ちなみに、広島長崎への原爆投下の理屈も、このドゥーエ理論の応用です。

第1次世界大戦後には、
「空戦に関する規則」(ハーグ空戦規則・1923年)がつくられます。
軍事目標であっても、平和的人民を威嚇し非軍事的な
私有財産を破壊するための空爆を禁止しました。
この空戦規則は条文化されませんでしたが、
各国が指針としてマニュアル化したそうです。

しかし、それが戦争の過程で崩れていきます。
まず、ドイツ軍によるスペイン・ゲルニカ爆撃(1937年4月26日)です。
世界で初めて、都市を対象にした焼夷弾による無差別爆撃です。
このゲルニカ爆撃を告発したのがピカソの大作『ゲルニカ』です。

そのゲルニカ爆撃から数か月後、アジアでは日中戦争が始まります。
日本軍による中国への空爆は徹頭徹尾無差別爆撃でした。
とくに、南京陥落のあと首都となった
重慶への爆撃(1938年末~1941年末)は、長期間・意図的に
都市そのものを殲滅するというものでした。
200回以上の爆撃を行っています。
この重慶爆撃によって、1万2千人の重慶市民が
殺されたと言われています。

第2次世界大戦はドイツによるポーランド侵略から
始まりましたが、そのさい、首都ワルシャワに
無差別空爆が行われました(1939年9月)。
その後、ドイツとイギリスは、おたがいの国へ
空爆を行い、報復攻撃はエスカレートとしていきます。

つまり、「軍事目標を狙う」という相互規制は
あっというまに崩れていったのです。
戦争というのは、いったん始まってしまえば、
日常あたりまえの倫理感、最低限守らなくてはならない
ルールなど簡単になくなってしまうのです。
それが、この空爆の歴史にもあてはまります。

また空爆は、殺す人間と殺される人間の
距離が離れているということもあり、
「人を殺すことへの躊躇」がより薄れることも
指摘しておかなければなりません。

第2次世界大戦末期になると、連合軍による
ドイツ各都市への空爆も激しくなります。

アジアでは、1944年7月、マリアナ諸島が陥落し、
アメリカ軍による日本各都市への空爆が本格化します。
少なくとも、ここで戦争をやめる決断をすべきでした。
国民の命が危機にさらされ、
敗戦は誰の目にも明らかだったからです。
しかし日本の戦争指導部は、国体護持に固執し、
ずるずると戦争を引き延ばしていきます。

米軍は、1945年3月初旬にはサイパンに
爆撃機B29を380機集結させます。
搭載した「M69焼夷弾」は日本家屋を焼き払うために
特別に開発されたものです。
日本都市への空襲は、初めから無差別殺戮を意図したものです。
女性や子ども、高齢者がそこにいるのがわかっていたのに、
無差別に殺したわけで、明らかに戦時国際法に違反する行為でした。

大都市への焼夷弾による無差別爆撃の開始されたのは、
3月10日東京大空襲でした。1夜にして、たった数時間で、
10万人もの人が殺戮されるというのは、人類の戦争史の
なかで、東京大空襲が唯一だと思います。
以後、横浜・川崎・名古屋・大阪・神戸・尼崎が大空襲を受けます。
4月に沖縄戦が本格化し、日本本土への空襲はいったんとまりますが、
中小都市への空襲が6月中旬から再開されます。

6月29日、岡山空襲のあった日には、同時に佐世保・門司・延岡にも
空襲がありました。米軍は1回につき4都市ずつを目標に空襲を行いました。
終戦まで計57都市が空襲被害を受けます。

この、連合軍による都市無差別爆撃(原爆投下ふくめ)は、
いまも、誰も罪に問われていません。

私たちは、「やむをえない犠牲論」「戦争受忍論」を
乗りこえなければなりません。
そのためには、こうした空襲がなぜ行ったのか、
無差別爆撃とはどういうものだったのか、
戦争をやめることができたのに、なぜやめなかったのか。
こうした歴史や背景を知ることが大事ではないでしょうか。
そういうことを考える日にもしたいと思います。

(以上)