倉敷医療生協労組のお昼休み学習会の7回目。
「じつはすごい労働組合の歴史」のレジュメです(約30分版)。
【はじめに】
歴史を学ぶことの意味。認識の出発点はつねに部分(現瞬間は見えやすい)
いまの姿が、「あたりまえ」でなかった。新しい常識をつくってきた人びと。
200年以上の歴史をもつ労働組合。労働者の自主的な組織。使用者(資本)
とのたたかい。勝ったり負けたり。団結することの難しさと必然性。
1つひとつの人権・働くルールを積み上げてきた。
一。労働者の抵抗は、その存在とともに始まった
◇世界でいちばん早く資本主義が発達したイギリス
*「雇われて賃金を得る人」が急増。しかし今のような労働法など
なにもない。長時間労働、児童労働、低賃金、首切り自由、
セーフティネットなし、住環境悪く・・・。
*最初の抵抗は「盗み」や「機械打ちこわし」←失敗。
*パブを拠点に徒党の組み方を発展。まずはみんなで助けあい(共済活動)
*次に、みんなで仕事拒否(ストライキ)。みんなで交渉する。
労働者は数が多い。使用者も労働者に依存している。「みんなで」を
武器にすれば対等に交渉可能。
◇恒常的に「数の力」をまとめ、強くする組織の必要性
*労働組合結成。1799年団結禁止法。でも生活がある(尊厳)。弾圧
のりこえ権利としての労働組合1824年。国の法律として争議権(スト
ライキ)をふくむ労働基本権が確立1906年。団結禁止法制定から
100年以上。世界中に広がる。
◇先輩労働者たちの厳しくも熱いたたかい。ねばり強く。さまざまな
人権や働くルール(労働法)を獲得。8時間労働も有給休暇も。
労働者の連帯は国や世代をこえる。
二。日本での労働組合の歴史とその流れ
◇日本の近代化と労働者―1868年の明治維新から近代化スタート。
*明治政府が上から資本主義化。中心を担ったのは炭鉱や繊維産業。
*1870年には、炭鉱労働者の暴動が始まっていた
*1885年に山梨県甲府の製糸工場で、女工たちによるわが国最初の
ストライキ。1886年には雨宮製糸工場の女工たち100人が近くの
寺にたてこもり、明確な要求かかげてストライキ。
◇しかしこの女工たちのたたかいは、あくまで一時的なものにとどまっていた
*彼女たちの多くが農家の出身で、数年工場で働いたのには農村に
帰ったため。
◇日本における労働組合の誕生
―片山潜(岡山県久米南町出身)らが結成呼びかけ
*1897年、労働者に労働組合をつくるための呼びかけ・準備組織として
「労働組合期成会」がつくられた。機関紙「労働世界」を発行。
*この期成会の活動を母体として、最初の労働組合、鉄工組合(1897年。
金属機械工の組合)、日本鉄道矯正会(1898年。日本鉄道株式会社の
機関士、火夫の組合)、活版工組合(1899年)など結成。イギリスに
おくれること100年以上。
◇政府は1900年に、治安警察法(=組合死刑法)をつくり、弾圧。
*集会・結社の自由を奪う。
団結権・争議権などは17条によって刑事罰の対象に。
*1920年には第1回メーデーも開催。しかし政府や資本の攻撃も
激しかった。日本が侵略戦争へと突き進む時期、労働運動は徹底的に
弾圧された。
◇戦後の労働運動の出発―1945年8月15日に日本は敗戦。アメリカの占領下に。
*ポツダム宣言(日本の民主化政策)にもとづいて、労働組合結成が
奨励される。
*労働組合法(1945)、日本国憲法(1946)、労働基準法(1947年)
◇爆発的に広がった労働組合
*1945年末60万人→1946年368万人→1948年末650万人(組織率は
このとき55.8%で戦後最高)。(今は17.5%の組織率)
◇労働運動への弾圧はすぐに始まった(アメリカの占領政策の転換)
*GHQが1947年2月1日に準備されていたゼネラルストライキの禁止令。
*1948年には公務員労働者のストライキ権剥奪。1950年に活動家の
レッドパージ。
◇しかし、労働者のたたかいはそれを乗り越えて高揚していく
*1955年春闘スタート。1960年の安保改定闘争・三井三池炭鉱における
解雇撤回闘争。1961年の春闘ではじめて2ケタの賃上げ率を獲得。
1974年春闘では史上最高の32.9%の賃上げの実現(高度経済成長を
内部から押し上げる力に)。
*財界は労働者のたたかいを押さえつけるために、労働組合の力を
分断せる政策をとっていく。1989年に労使協調路線をとるナショナル
センター連合を結成。
*1989年連合と同じ日に結成されたのが、労働者の立場にたつナショナル
センターの「全労連(全国労働組合総連合)」。産業別の運動も発展。
医療・介護は医労連に結集。約17万人。労働者の唯一の社会的力は
「数の力」。まとまってたたかう。
三。看護のたたかいを例に
―「人間らしさ」と「よい看護」を求めた人びとの物語
◇戦後すぐの看護師の労働条件
*戦中の従軍看護(軍隊並の厳しさと長時間の労働奉仕)の影響が
色濃く残る。
*全寮制(しかも雑居同室)で、寮監や総婦長に生活まで監視され、
奉仕の精神のもと、自宅からの通勤さえも許されなかった。
就職の時、「結婚・通勤の場合は退職します」という誓約書を
書かされ、「カゴの鳥」状態だった。
*食べられるだけの賃金をもらいたいという当たり前の要求も
できなかった時代
*暗闇のような職場に、光をともしたのが労働組合だった。
組合ならものが言える。
◇古いおきてを破る人間宣言―妊娠・出産の自由もなかった時代
*1959年には、新潟の国立高田病院で妊娠制限という驚くべき
実態が発覚。人手不足を理由に、「妊娠は年に4人まで」の
「きまり」がつくられ、「割り当て外」に妊娠した看護婦の出産の
是非は看護婦互助会で投票して決めることとされていた。大きな
社会問題となる。全医労のたたかいによって撤回させる。
◇日本をゆるがす病院ストライキ(「人権闘争」)
―1960年初めての統一闘争
*60年秋から61年春にかけて歴史的な「病院スト」にたちあがる。
*330病院、3万人をこえる医療労働者が参加する。
*あまりにも低い賃金と前近代的な労使関係に怒りが爆発。
「無賃(ナイチン)ガールはごめんだ」と、劣悪な労働条件の改善、
看護婦の結婚・通勤の自由、全寮制打破などを要求して、十数波に
およぶ全国的なストライキを実施。
*病院経営者や政府からの弾圧、首切り、組合分裂攻撃も。
◇看護婦の夜勤制限闘争―1968年の新潟県立病院の「ニッパチ闘争」
*看護婦の過酷な1人夜勤、月の半数を超える夜勤日数、長時間労働、
母性破壊などの実態を改善し「患者に良い看護をしたい」という
切実な要求を実現するために、1963年人事院に実態調査をさせ、
「夜勤は月平均8日以内、1人夜勤廃止」の判定を出させる。その
判定をテコに、1968年、新潟県立病院における看護婦の実力
行使を背景にした「夜勤協定」獲得のたたかいが始まり、それを
皮切りに、「2人以上・月8日以内」夜勤体制を要求する実力闘争が
全国的にひろがる。
◇ナースウェーブ運動への発展
―看護師のたたかいを全国的に強めたかめていく。
【まとめ】
雇われて働く労働者、という立場から生まれてくる要求。
生活の尊厳。働く尊厳。それを守るためには、
労働者は「団結したたかう」以外になかった。
倉敷医療生協労組にも歴史あり。
いま「労働組合の必要性」はますます高まっている。学ぶことで認識が発展。
ねばり強く。日常的な活動が、未来へと必ずつながっていく。