長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

ストライキについてのメモ(3)

藤本正『ストライキ』(新日本新書、1971年)
88P~90Pより


フランスの人民戦線の勝利と大ストライキ

 フランスで、1つの大汚職事件を契機として、独占資本の
後押しによってファシストたちが暴動を起こしたのは、ナチ
スが政権を奪取してから10か月あまりたった1934年2月6日
のことだった。その結果内閣は倒れ、半ファシズム的な
ドゥーメルグ内閣を組織し、ファシズム化の危機がこのフラ
ンスにもせまったのであった。
 しかし、ドイツとちがって、フランスの労働者たちはただ
ちに反ファシズムの闘争にたちあがった。2月9日には、フラ
ンス共産党と統一労働総同盟のデモが組織され、12日の社会
党、労働総同盟のゼネストには右の2つの組織も合流して、
歴史上最大のゼネストとなった。全国で約400万の労働者が
これに参加し、鉄道、電信、市電その他あらゆる経済的機能
は完全に停止したのである。これを第1歩として、反ファシ
ズムの統一行動が発展しはじめる。
 フランス共産党は、まもなく、反ファシズムのたたかいの
ために、人民戦線の結成を呼びかけたが、そのもととなる
べき社会党との統一行動の提唱は、34年9月に社会党によって
うけいれられた。ついで35年7月、社会党、共産党、急進社
会党(プチブルの党)その他民主的小政党、あらゆる民主
団体、労働組合を加えた人民戦線の結成に成功し、まもなく、
反ファシズム、反戦、経済的諸改良政策をふくみ人民戦線
綱領が決定された。また分裂していた2つの労働組合は合体
した。つまり、フランスの労働者ならびに人民は、統一行動
の必要を痛切に感じ、それを実現したのである。こうして、
36年4・5月の総選挙で、人民戦線諸派は大勝利をおさめ、6月
初旬、社会党のブルムを首相とする人民戦線内閣が成立した。
この総選挙の直後から、ストライキが発展しはじめる。
 労働条件は、大恐慌の過程で悪化していたが、人民戦線の
勝利によって、労働者の長年の不満が爆発した。ストライキ
は、またたくまに燃えひろがり、6月初旬には実に190万の
労働者が(その多くは工場占拠をおこなった)ストライキに
はいっていた。当時組織率は低かったので、未組織労働者を
加えて企業内部にストライキ委員会が組織され、この委員会
は労働組合と連絡をとりながら、工場保安と食料の補給と
余暇を組織した。このストライキは、大幅賃上げ、労働時間
短縮、組合活動の自由の3本の柱を中心要求として組織され
たが、このとき、百貨店など非肉体労働者の多い産業でも、
多数がストに加わったのは他国にみられないことだった。
 資本家は、工場占拠は違法だとして、団交に応じようと
しなかったが、ブルムは6月4日、組閣を完了するやいなや、
合同した労働総同盟の代表と経営者団体の代表とを官邸に
呼びよせ、統一団交をうながし、もし不成功のばあいには、
仲裁することを申し入れた。この統一団交と仲裁によって、
組合活動の自由、7~15パーセントの賃上げなど、労働組合
の諸要求の大部分はうけいれられることとなった。これと
同時に、労働組合が以前から要求していた週40時間法、
2週間の年次有給休暇、団体協約法の改正(一定の条件の
もとに一般的拘束力を与える)が実現されたのである。これ
は、人民戦線の勝利と一大ストライキが背景にあったから
である。経済闘争と政治闘争との結びつきを示す1つの典型
である。なお、このとき、トロツキストたちは(トロツキー
をふくめて)、革命的情勢下にあるとして、“なんでもできる”
“労働者に武器を”という、極左的宣伝をおこなったが、大衆は
人民戦線を守ったのである。
 もっとも、このあと、人民戦線の下部組織をかためなかっ
たことが最大の理由となって(すべての地区に人民戦線委員
会を結成するという共産党の提案は、社会党、急進社会党に
よって拒否された)、独占の攻撃をうけて人民戦線はくず
され、右の一大ストライキによって獲得されたものは、しだ
いに奪いかえられていった。