きのうのソワニエ授業で紹介した本。
学生さんの反応もけっこうありました。
もう若い世代はジェンダーの縛りは
かなり無くなってきているなという印象です。
『僕が家庭科教師になったわけーつまるところの「生きる力」』
(小平陽一、太郎次郎社エディタス、2016年1月)
5年前に、男性家庭科教員の本
(『正しいパンツのたたみ方』岩波ジュニア新書)を読み、
家庭科という教科の発展に目を見開きましたが、
本書も素晴らしい内容でした。
男性家庭科教員のフロントランナー的存在の著者の
生身の生活体験、化学教師から家庭科教師への変遷の
理由が平易かつリアルに綴られていて、とてもとても
共感。同時に、戦後の家庭科のあゆみとジェンダー
呪縛からの解放に注目。
家庭科という名称も「生活科」に発展的に変われば
いいと思いました。そして、まだ欠けている生活と
政治の関わりについても家庭科のなかで取り組んで
ほしいなど。主権者教育の突破口に家庭科がなって
ほしいと感じました。
以下、メモです。
「暮らしを科学の視点でとらえる。逆に、科学を
暮らしの視点で考えてみる。こういうことを生徒に
伝えたいと思うようになりました」
(1980年代までの)「女子のみの家庭科が、女子
がやがて結婚して家庭に入り、家事・育児の役割
をおもに担うことを暗黙のうちに前提としている
ことです。というか、女子だけが家庭科を学ぶこ
とが、知らず知らずのうちに、『男は外、女は内』
という意識を生徒に植えつけていることにほかな
りません」
「学びというのは、自分の狭い先入観や意識に気づ
き、もっと広い世界を知ることだと思うのです。科
学もそうです。それは科学の歴史をみれば明らかで
す。目に見える世界や日常経験する常識にとらわれ
ている世界は狭いものです。それを疑うことから始
まり、視点を変えたり、発想を変えたりして見てみ
ると、また違った実像が見えてきたりして、もっと
広い世界に誘ってくれるのが科学だと思うのです」
「いまの生徒たちは、日々あふれんばかりの情報に
さらされている一方で、生活体験が圧倒的に不足し
ていることを感じます」
「僕が化学から家庭科に移った理由は、現代科学へ
の疑問と、夫婦共稼ぎで家事・育児に悪戦苦闘して
きた私生活からでした。
現代科学は、今日の高度に発達した情報化社会や
医療技術、先端の科学技術をもたらし、私たちは便
利でモノの豊かな生活を享受しています。しかし、
この便利さは生活様式の変化をもたらすとともに、
それを無条件に受け入れてしまう危うさや環境への
負荷、安全性をめぐっての新たな問題を引き起こし
ています。私たちは、この科学の二面性をたえずチ
ェックしていかなければならないと思います。
たとえば、デジタル通信技術は私たちの生活を一
変させました。インターネットやSNSの世界が広が
り、その応用の可能性は無限に広がっています。一
方で、洪水のように押しよせる情報に身をさらすな
かで、もっと便利に、もっと楽しいものをとたえず
刺激され、神経は興奮を余儀なくされます。新技術
によってゆったりした時間をもてるはずが、ますま
す忙しい生活を強いられていると思ったことはあり
ませんか? この便利さとどうつきあうかは、私たち
につきつけられた課題であるような気がします。季
節感や自然が生活から遠のいて、伝承的な生活文化
がひとつずつ消えていき、新しい技術が導入される
ごとに、長年かけて培われた職人の技や生活技術は
その価値を失いつつあります。
そうして生活のあらゆる場面で外注化・外部化が
進むサービス社会のなかで、実体のある生活感が薄
れ、人びとの感覚が無機質的になっていくことに、
僕は危惧感をいだきます。
…これまでみずから工夫を加えて暮らしてきた生
活の営みを、サービスに代えて他人の手に渡してし
まえば、あるのは、お金とひきかえに〝選ぶ”という
行為だけです。それによる消費生活ばかりが肥大し
ていくでしょう」
「僕は、現代科学に欠けているものがあるとすると、
それは生活者の視点だと考えています。生活者の立
地から現代科学を見つめ、便利さとのほどほどのつ
きあいを考え、豊かさとは何かを問い直すことがい
ま、必要なことだと思っています」
「暮らしの担い手になる」
「人生や生活をデザインする」
「僕はもう『家庭』という枠をこえて、もっと広い
世界を対象としたほうがいいと思っています。家庭
科はもう女の教科ではないし、家庭という限られた
世界に留まることはないと。もちろん、家族・家庭
の大切さを否定するわけではありません。その大切
なことをふまえたうえで、人間生活や市民生活、人
間の生活環境を対象とした教科に変わっていったほ
うが、より人間教育として、いのちの教育としての
広がりがもてるように思うのです」