長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

社会権再生への連帯―講義概要

9月4日の社会権講座3回目の講義要旨です。
8000字ぐらいあります。あくまで要約です。

 最終回になる。今日は元気になるような問題提起をしたい。はじめに紹介したいのは、2日前の菅官房長官の総裁選出馬会見での発言だ。「国の基本は自助、共助、公助だ。まず自分でやってみて、地域や自治体が助け合う。その上で政府が責任を持って対応する。このような国のあり方を目指すには、国民から信頼をされる政府でなければならない」と言っている。私たちがたとえば災害対策などで「自助・共助」を言うのと、政府が「自助・共助」をまっさきに強調するのとでは、まったく意味合いがちがう。ようするに政府の責任はいちばん最後で、積極的にはなにもしません、という宣言だ。社会権の否定をこれからもしていくという姿勢があらわになったといえる。よくこんな発言を堂々といえるなと思うが、それに対しての異議が湧きおこる状況ではないところに、日本社会の深刻さがある。

 今日のポイントは、財源論とエンパワーメントの運動論だ。まず、財源論。竹内章郎・吉崎祥司著『社会権』(大月書店)では、「社会保障は、財源としての累進課税や法人課税、高額所得付加税・富裕税や相続税などの『再配分』によって、つまり所有権を制限することで実現し充実しうるものである」と繰り返し強調されている。教育無償化、失業補償、医療、年金、福祉、生活保護…。こうした社会権の実質化には、富の再配分が不可欠という認識である。
 しかし、日本ではまやかしの財源論が大手をふるっている。まず、財政危機論だ。高齢化社会の進展による社会保障の増大によって国の財政が圧迫されている、という議論だ。もうひとつのまやかしは、社会保障財源=消費税論だ。多くの人に浸透している。消費税は生活税ともいえる。消費なしに生活はできない。生活必需品にも課税する消費税は、社会保障財源として不適格である。強い逆進性もある。税金は消費税だけでなく、所得税や法人税もあるのに、財源の議論では消費税しか出てこない場合が多い。また、公務員を減らせ、議員を減らせ、という主張も目を逸らせる効果をもっているし、社会権を支える担い手を減らすことになってしまう。こうして、大企業に対する法人税、富裕層や不労所得・資産に対する課税への関心の弱さがより助長される(目に見えにくさもある)。それはそれを求める運動の弱さの反映でもある。
 富の「再配分」機能の強化は可能だ。まず確認したいのは、税負担の大原則は応能負担(応能原則)ということだ。負担する能力に応じての課税である。たくさん稼いだ企業や個人から、よりたくさん収めていただく。これが原則だ。また、生存権保障に対する国の責任を明記した25条から導き出されるのは、税金はまっさきに社会保障・社会福祉に使われることを目的としている、ということだ。
 税理士さんなどで作られている「不公平な税制をただす会」の試算では、1974年当時に適用されていた超過累進課税適用(最高税率93%)で13兆1752億円の新たな税収を見込める。消費税導入前の源泉分離課税(35%)を2018年度にあてはめると5兆5041億円。大企業優遇税制をなくし、法人税に所得税並みの超過累進課税適用で22兆2245億円の増収となるそうだ。以上のものを中心に法人税と所得税を総合累進課税にすると、41兆5075億円の財源が生まれる。2020年度予算の消費税税収21兆7190億円を差し引いても、約20兆円も増収となる。そう単純にはいかないかもしれないが、累進課税の強化によって再配分機能を取り戻せば、財源は十分にある、ということだ。
 世界的に、深刻な富の偏在と、そこへの課税が課題となっている。世界の上位2153人の資産が総人口の6割にあたる46億人分の資産を上回るという試算がある。国際的なNGO(非営利組織)の「オックスファム」が2020年1月20日、ダボス会議(世界経済フォーラムの年次総会)に合わせて発表した最新の報告書だ。ちなみに2153人の線引きは10億ドル(約1100億円)以上の資産保有者である。さらに報告書では、世界で最も裕福な1%の持つと富の合計は、その他の69億人が持つ富の合計の2倍以上となっていることや、世界で最も裕福な22人の男性の富の合計は、アフリカのすべての女性が持つ富よりも大きいことをあげている。世界で経済的な格差が広がっている一因として、富裕層や大企業向けの優遇税制が行われていることや、富裕層の多くがタックスヘブンなどを利用して、意図的な税金逃れを行っていることをあげ、富裕層は本来支払うべき税額のうち、3割にあたる額を逃れている、としている。

 こうした財源問題から、社会権の現実的根拠を考えてみたい。その根拠を考えることは、配分・再配分の理由を問うことでもある。まず、世界(日本をふくむ)は、すべての人に社会権を保障する物的基盤をすでに備えていることは確認できると思う。その富が偏っているがために、貧困が放置されているのだ。物的基盤があるのならば、存在と生活にもとづくニーズは、まず無条件に肯定されなければならない。そのニーズ保障が不十分であるのは、再配分が機能していないからだ。
 ここで、「大企業やお金持ちからそんなに高い割合で税金を徴収してもいいのか?」という疑問が出てくる。それを考えたい。結論としては、まったく問題ないし、妥当だ、ということだ。たとえば年間所得50億円の人に、1974年当時の最高税率93%をかけたら、残るのはいくらか?3億5千万円である。これで、何の問題が出てくるだろう。最高税率9割とか聞いて「え!」とびっくりするのは、庶民の感覚だ。
 さらに、大資本や富裕層の「富」は、ほんとうに「私的所有物」か? ということも考えてみたい。資本主義社会では、集団的協働にもとづいて巨大な富が築かれた。どんな資本家であっても、労働者集団の労働なしに、利益を生み出すことはできない。トヨタが年間1兆円とか2兆円とか利益を生み出しているが、それはトヨタの数多くの労働者と、トヨタが車をつくるために必要なさまざまな社会資源やサービスを生み出している社会的労働による成果だということだ。富を生み出す基盤としての労働は、すでに社会的・共同的なものとなっている。1人で生み出すことのできるものなど、ごく少量に限られている。しかしここでも物象化(人と人との関係がモノとモノとの関係に置き換わる現象)がそのことを覆い隠しているといえる。
 一方で、労働者階級を中心に、深刻な貧困や疾病、老後の生活難などが出現している。個人的努力ではいかんともしがたい「社会問題」となっている。大事なことは、富の増大と、貧困(リスク)の増大は、相互的なものである点だ。
 マルクスは『資本論』で「一方の極における富の蓄積は、同時に、その対極における、すなわち自分自身の生産物を資本として生産する階級の側における、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、野蛮化、および道徳的堕落の蓄積である」と述べている。富の蓄積と貧困の蓄積は同時進行に、相互的に生まれてくるものだ。富が増大する条件として貧困があるのだ。貧困(リスク)と「富」は同時に相互的に生起するものである。
 少し難解だが、また『社会権』から引用する。「社会権の実現は、〈富〉の存在を前提に『後から』〈富〉を〈リスク〉側に配分することではない。換言すれば〈リスクと富〉は、同時に相互的に生起する共同的集団的なものであり、〈リスク〉克服も当初からいっさいの留保なしに―私的所有に依拠する自己責任論などとは無関与に―、本来的に共同的・集団的な〈富〉―市場秩序化では〈リスク〉から分断されているが―に求められる。たとえば生活保護は原理的には、特定の貧困者を富裕者に依拠して救済する社会制度ではなく、社会における共同的集団的〈リスク〉を社会における共同的集団的〈富〉が補填する社会制度である。…財源論を理由とする生存権の否定や軽視は、生命の尊厳論や貧富の格差への道徳的忌避などの抽象的ヒューマニズムによって批判される以前に、貧困などの〈リスク〉と富裕などの〈富〉との相互性から財政難自体が原理的にありえないがゆえに非難されうるのである」
 富裕な階級の「富」というのは「社会財」の性格を色濃くもつということを押さえたい。ここに、一般に大きな所得や利益に対して高度の累進課税を課す、十分な理由がある。社会の資産として回収・還元されなければならない。

 この講座の、最後に、自己責任論を乗り越えるためにということで、エンパワーメントの運動論、というものを問題提起したい。社会権を獲得してきた歴史を1回目の講座で学んだが、労働運動を中心とした社会運動によって、すべての人の人権が保障される社会を目指してきたのが特徴だった。したがって、運動や組織を強くすることなしに、社会権は再生できない、というのが結論である。しかしそのためには、1人ひとりが自己責任論をのりこえ、主体として立ち上がってくる必要がある。
 まずは、徹底的な人権学習、とくに社会権のそもそもと近現代史についての学びが大事だ。日本国憲法の学びは、9条・平和主義に重点が置かれてきたため、人権学習は相対的に軽く扱われてきたように思う。人権学習は、人びとを勇気づけるものだ。1人ひとりの価値の無条件の肯定であり、人権の主体が自分であることを教えてくれる。学校教育での人権学習が不十分な現状がある以上、社会運動・労働運動のなかでの人権学習運動が重要となってくる。
 次に、社会権再生の鍵を握るのは、やはり「私たちの代表を議会へ」ということだ。社会権の綱を引きあう場所として、政治がある。憲法の目的である人権保障。それが政治の目的と考える人を多数議会に送り出すことだ。代表制民主主義においては、国家と個人のあいだに位置する中間団体が重要な役割を担っている。労働運動、さまざまな民主団体、市民運動組織、などだ。ヨーロッパの社会権が日本よりも強固なのは、強い産業別労働組合とその代表者としての社会民主主義政党の一定の強さがある。日本では企業の力、業界団体の影響力が大きく強い。それが自民党の強さの前提ともなっている。日本では特に、労働運動の再生が重要だと思う。社会運動を強く大きくするなかで、人びとがエンパワーメントされる。

 エンパワーメントについて改めて押さえたい。端的にいうと、自己効力感の獲得である。これを戦略的に位置づける、ということだ。
 「エンパワメントということばは、真に実践的な意味においては、自分の周りの環境に対して影響を及ぼす能力をもっていると感じ、その結果、自分の欲求を満たすことができるということを指す…。自己効力感」(ビリー・リー『実践 コミュニティーワーク~地域が変わる 社会が変わる』学文社)
 「人びとが感じる孤立感は、寂しさだけでなく困惑や無力感へとつながっていく。疎外されることで人はエンパワメントの反対の状況に陥る。わたしたちには確固とした社会関係が必要なのだ。ひとりだけでは周りにある巨大システムに影響を及ぼすことはできない。実際にわたしたちは、そうしたシステムが非常に抑圧的な方法で、わたしたちに向かっていると感じるだろう。力を感じるためには、他者とのつながりを経験しなければならない。コミュニティ感覚、つまり共通の経験や夢の発見、再構築は、無力感を減少させる。またそれは、社会変化を達成する戦いになくてはならない要素である」(同上)

 2つの運動から学びたいと思う。まず、障害者の自立生活運動だ。ウェキペディアでは、「自立生活運動とは、障害者が自立生活の権利を主張した社会運動のことである。自立生活運動が起きる以前の重度障害者は、…ボランティアによる介助を受けるなど慈善や温情に基づく援助によって生活活動を成り立たせていた。それは一方で救護施設での集団生活を余儀なくされたり、医療関係者や介助職員への依存を求められるなど、障害者が主体性を奪われ一方的な保護対象となることでもあった。自立生活運動はそういったパターナリズムに対するエンパワメントを軸とした活動である」と記述されている。パターナリズムとは、強者と弱者の関係性のなかで、強者が良かれと思って弱者に介入しすぎて、弱者の主体性を奪ってしまう、こういうことを指す。それはさまざまな関係性のなかで見いだされる。そこをひっくり返してきたのが、障害者運動だ。
 私も相方が障害者になってから、関連する本をたくさん読んだが、いちばん衝撃的だったのが、自身も身体障害者である中西正司氏の『自立生活運動史―社会変革の戦略と戦術』(現代書館)だ。社会運動に興味のある人には、ぜひとも読んでほしい1冊だ。中西氏は、こう指摘している。「障害者は障害をもっているだけで、障害当事者となるわけではない。『当事者主権』の中でも言われているように、障害者としてもたされているニーズは、本来社会が当然のこととして障害者に配慮して用意しておくべきものが用意されていないために、障害者がそのニーズをもたされている社会的問題であると気付いて、その社会を変革していこうと決意したときに初めて当事者となる」。どんなに劣悪で不当な環境に置かれていても、その環境を変革しようと自覚しなければ、当事者にはなれない、というするどい提起である。労働者も、労働者として職場の当事者となるには、主体性の獲得が不可欠だ。
 障害者の自立生活運動では、「心理的エンパワメント支援」と「体験的エンパワメント支援」を戦略的に位置づけ、主体性獲得の両輪として体系化・プログラム化している。以下は、中西氏の著作からの引用である。
 ・「本来はいろいろな可能性も潜在力もあったのが、環境に押しつぶされていったのです。その自分の能力と自信を取り戻そうというのが、ピア・カウンセリングの骨格理論です」「個人は組織でエンパワーされる」
 ・「われわれ自身が社会変革の主体者であって、自分たちこそが福祉サービスのニーズをもっていて、それを的確に表現でき、要求できる主体なんだと考える」
 ・「地域での自立生活の疑似体験がなされ、そこから、利用者自身が自分にはどのようなニーズがあるのか、どのような生活がしたいのか、そのためにはどのような社会資源が必要なのかを、体験の中から把握していくことができる」
 ・「自立生活プログラムは介助者との人間関係、地域住民との付き合い方、トラブルの解決方法等をグループでのプログラムで行う」「外出の方法を実際にフィールドトリップで行ったり、トラブル解決をロールプレイで学んだりする実践的内容」
 ・「運動ってやらない限り、ニーズが顕在化しない。顕在化しないと、そんなニーズはありませんということになってしまって、何も起こらない」
 ・「運動を持続していくために、みんなが過去の歴史を知っておいてほしい。先輩がどう苦労して、それを勝ち取ってきたか、その過程にはどんな苦労があって、どうそれをやり抜いたのか」
 この運動は、「自立」概念をひっくり返したと言われている。誰にも頼らず生きることという「経済的自立」ではなく、「自己選択、自己決定」こそを本当の自立ととらえ、そのために他者の助けをかりることは正当なことであると考えたのだ。
 自分は客体(変化を及ぼされる存在)ではなく主体(変化を担うもの)であるという感覚をカウンセリングや学習、またトレーニングなどを体系的に行うことで育てる。また運動を通して変化を「勝ち取る」ことによって自己効力感を強化するということを非常に自覚しながら運動を展開してきている。「障害者側の意識の中に、相手を超えるものを自分たちはもっているということを確信させるのは、やはり交渉がうまくいく、運動がうまくいっている結果だろうと思う。だから運動体は、いったん運動を仕掛けたら、負けるわけにはいかない。必ず勝っていかないと、次の運動につながらない」と中西氏は強調している。
 活動家づくりも非常に重視して疎かにしない。運動の醍醐味や戦略性をみごとに実践してきた障害者運動からは、多くのことを学べると思う。

 共通するが、黒人の公民権運動も示唆的な運動論をもっている。以下は『マーティン・ルーサー・キング~非暴力の闘士』(黒﨑真、岩波新書)73~75Pからの要約だ。
 ・ワークショップでは、非暴力の哲学と戦術に関する討論、質疑応答、抗議行動の際の服装、言葉遣い、遭遇するであろう暴力を想定したロールプレイが繰り返し行われる。半年以上に及ぶワークショップは、大きく3段階に分かれていた。最初の2段階は主として非暴力の哲学に対する理解にあてられ、第3段階は実践。
 ・第1段階は、参加者が自尊心を獲得し、不正には抵抗しなければならないことを確信する段階。参加者は、人種問題についてオープンに議論してよいという経験自体に驚く。そして、自分の、家族の、親戚の、友人の人種差別体験を話し、共有し、共感する。一人で悩む必要がなくなると、連帯意識が生まれ、恐怖心が取り除かれ、自分でも気づかなかった勇気と自尊心が芽生えてくる。
 ・第2段階は、不正を正し和解を勝ち取る方法として非暴力の有効性を認識する段階である。この第2段階までに主催者はあせらず何か月も費やす。その間、もっぱら聞き役に徹し、疑問や意見を自由に討論させ、助言を与える。参加者の中には、ワークショップを途中でやめる者もいるし、継続する者もいる。最後まで残った参加者は、キングが非暴力の六原理と呼ぶ非暴力哲学を身につけるにいたる。
 ・非暴力哲学に対する理解が深まると、実践の第3段階に入る。その焦点は「社会劇」、すなわち実際に遭遇する口汚い暴言や暴力を想定したロールプレイである。ランチカウンターへのシット・インの場面を想定し、参加者はカウンター席に座る。南部白人役の者は、参加者に顔の前で「このニガー」「猿」「神は白人だぞ」と罵り続ける。小突く。頭からケチャップやミルクをかける。顔に唾を吐きかける。椅子を揺らして引きずり倒す。参加者は、それでも冷静さを保ち、礼儀正しい言葉を使い、非暴力を貫けるよう訓練する。
 ・ロールプレイの後、参加者は、毎回自分がどう反応したか、どんな感情を持ったか、悪意を抱かなかったか、非暴力を貫くために何が必要かなど、あらゆる問題点を他の参加者と話し合う。これを繰り返し行い、完全に自己統制ができるまでにする。ワークショップに参加した学生たちは、このようにして非暴力の熟達者に成長していき、公民権運動を牽引していくのである。
 こうしたトレーニングを徹底してやる。実践に踏み出すには、誰もが躊躇したり、経験不足による怖れを抱く。だから実践的な学びも、座学と同じように重視する。キング牧師の『自由への大いなる歩み』(岩波新書)でも、集会のなかで実際にバス闘争を想定したロールプレイングをするなど、「実践のためのトレーニング」を運動のなかで位置づけていた。これは日本の社会運動がいま必要としていることではないだろう。
 こうした「客体から主体になるトレーニング」を最大多数に行なえる組織が労働組合である。職場は人権侵害のデパート(強弱関係がはっきりしているから)ともいえる。「おかしなこと」を認識し、交渉と集団的実践で変化を起こす。そのことで人権感覚をみがき、自己効力感を育てる。
 当事者をつくり、リーダーを育て、変革の戦略をもとう。歴史に学び、さまざまな運動に学び、理論で力を高め、連帯の力で社会を変えよう。社会権を再建することは、社会を変革することだ。自己責任を乗り越え、すべての人が人権を保障される社会をつくる、その主体者を増やしていこう。