長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

長久、人前で話せなかったストーリー

今日(12日)午前中は、
とある県労連傘下の労働組合専従6人で5月からやっている
コミュニティ・オーガナイジングをもとにした
オンラインの連続ワークショップの5回目。
私は講師兼アドバイザーで関わらせていただいています。

今回は「パブリック・ナラティブとは」を深めました。
そのなかで、聴く人の心を動かす話し方の土台として
「私のストーリー」を語る、というものがあります。
情勢や課題を大所高所から語るのではなく(それも大事だが)、
私自身のストーリーやエピソードを語りましょう、ということです。

ポイントとして、迷いや弱さもふくめて、
自分自身を出さなくてはいけない(そこに人は共感するから)。
これは言うほど簡単ではないので、練習が必要なんだと強調。
そのなかで、例として長久自身の「人前で話せなかったストーリー」を
3分で語る、というのをやってみました。
以下がその原稿です。読み上げるとだいたい3分。1300字ぐらいです。

* * * * * *

 私は高校卒業後、東京の実家を離れ、岡山で民間会社に就職し、
ひとり暮らしを始めました。ただ、友人もおらず、職場と家とを
往復するだけの毎日。社会に対する見方も悲観的で、「だれか
この状況を救ってくれる英雄が現れないものか」といった考えさ
えもっていました。
 自分自身に対しては、消極的な性格、人生にたいする大きな
目当てがないことなど、自己嫌悪感を強くもっていました。自信
などありません。そんな自分を変えたいが、どうしたらいいのか
わからない、「もやもや感」が常にまとわりついていたように
思います。そんな時、当時加盟していた青年組織の新聞には
さまった一枚のチラシが目にとまったのです。それが第48期
岡山労働学校のチラシでした。
 それからは、自分自身がつくり変えられていく日々の連続でし
た。社会のしくみ、科学的な世界観、社会発展の法則と日本社会
の変革の道筋を学ぶにつれ、「もやもや感」はしだいに晴れ、
「なるほどこういう生き方のほうが楽しいぞ」と素直に思えた
のです。労働学校の受講生も、年上の方ばかりでしたが、ほん
とうに優しく接してくれ、出会いに恵まれ視野が広がりました。
学習運動の魅力にすっかりはまり込み、運営委員会にもすぐさ
ま参加。それまで味わったこともなく、不慣れであった、みん
なでものごとをつくりあげるという経験も、しだいに積んでい
きました。
 真面目に通っているうちに、学習協の当時の事務局長より、
「専従にならないか」と声がかかりました。事務所近くのファ
ミレスでのお誘いでした。でも、私は人前で話すことがとにか
く苦手。労働学校のグループ討論でさえ、顔が赤くなり、なか
なか自分の感想を言えないありさまでした。そのときは、「事
務局長のような講師活動はできませんが、それでもよければや
ります」と話をしたのを覚えています。それほどの苦手意識が
ありました。前の事務局長はあっさり「あ、それはできるよう
になるから」と言いました。半信半疑でしたが、学習運動の
面白さにはまっていた私は、その場で「やります」と答えたの
でした。
 そこからは必死で学びましたし、だんだんと人前で講師をす
る機会も増えていきました。今から思えば本から学んだ知識を
語っていただけでしたが、少しずつ人前で話すことにも慣れて
いきました。もちろん失敗やうまくいかなかった経験は山ほど
あります。でも、チャレンジしていたからこその失敗だったと
思うことができます。そして今、人前で話すことは私のアイデ
ンティティーの一部になっています。
 私自身のこうした経験から、「人は変われる」「苦手だと思
っているからやらないだけで、やれば一定の力は必ずつく」
「人間の可能性ってすごい」と思えるようになりました。そし
て、社会や他人に決められていた自分ごと、たとえば働き方や
生き方を、自分の手に引き寄せることができました。
 これが私の原点で、私の価値観をつくってきた大きな経験で
す。学ぶこと、チャレンジすること、仲間と切磋琢磨するなか
で、自分の人生が楽しいと思えたのです。こんな経験を、もっ
と多くの人にしてもらいたい、その場をつくっていきたい。そ
れが、いまも私が頑張っているエネルギー源です。