長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

竹内章朗「優生思想の根深さにどう向き合うのか」 メモ

『前衛』8月号、竹内章朗論文
「優生思想の根深さにどう向き合うのか」を読んだ。
優生思想の歴史や能力主義との結びつきを考えるうえで
示唆に富む内容だった。おすすめです。


以下、自分用のメモです。

■生物学的決定論には、それにもとづく優勝劣敗
ということがかならず含まれています。そして
その優勝劣敗には、たんに生死だけでなく、そこ
に至る、劣った生の排除ということも含まれます。
その排除や差別は別に殺すことだけでなく、医療
であったり、ケアや社会福祉の現実の中にも入り
こんできますし、ケアなどの享受の際にも、その
必要のある人とない人との分断という形でも優生
思想が現れるのです。そうした議論への批判が、
これまでの優生学研究のなかで弱いことも手伝っ
て、優生思想はいまなお、社会全体に広がって
影響をあたえていると思います。(125P)

■もっと言えば、近代の能力主義の根幹と優生思
想が結びついていることも考える必要があります。
たんに生と死ということだけではなく、その間に、
劣った生は排除したり、「死に近い生」に追い込
むという状況をつくる中にも優生思想があります。
だから能力によって差別、抑圧する能力主義と
優生思想はほとんど同根です。直接、殺すまでは
いたらなくとも、高齢者の処遇や障がい者の処遇
のなかにも優生思想は浸透します。私は社会全体
に能力主義競争があるということ自体を、優生思
想的だと捉えるべきだと思っています。優勝劣敗
というのは能力主義差別とまったく同じだからで
す。能力次第での給料の高低から、重度障がい者
を人里離れた山奥に隔離してしまうことなど、具
体的な形態はさまざまでしょう。またもちろん、
直接の殺害と隔離収容などとの大きな違いに注意
する必要もありますが、優勝劣敗という点は、能
力主義と同じです。そういうふうに拡大してみる
必要があると思います。(125~126P)

■現代人には、健康であること、できれば障がい
がない方がいいという思いがあります。それは私
も同じです。そこには「本来の人間」という像が
あり、どこかでそれ以外の人は「本来の人間にな
るべきだ」と考える。そして、普通にものごとを
考えるときは、そうでない人間を排除し、省いて
しまうというところがないでしょうか。そう考え
ると、優生思想とは、たんに生死の決定、殺す、
暴行するということだけでなく、「本来の人間」
に入らない人を嫌がる、排除することをも含んで
いると言えます。(130P)

■社会と日常の隅々にまで優生思想は浸透し得る
し、それは誰にとっても免れることが相当に難し
い問題として考えないといけないと思います。

■もともと健康や健常をもとめるということと病
者や障がい者を受け入れるということには矛盾す
る面があり、その両方が必要なことは確かだと
思っています。しかし両面とも、ヒューマニス
ティックなことをめざす考え方であるにもかか
わらず、その各々だけで突きすすむと反ヒュー
マニズムになってしまう。そういう矛盾、二律
背反を克服するような文化や社会を創出しなけ
ればいけないのですが、しかしそれは、まだまだ
とても弱いのです。この点は、しっかり見据える
必要があると思います。

■能力主義的差別は最後の差別(136P)

■能力は個人の私的所有としてのみとらえやすい
ため、自己責任を問いやすい。そうしたことが、
優生思想的なものを肯定するものとしても機能
する。(130P)

■はたして能力は単純に個人のものと言えるでし
ょうか、個人の私的所有物としてとらえきって
いいのでしょうか。優生思想の克服を考えると
きに、そのことをしつこく言い続ける必要がある
と思っています。私は、「能力の共同性」という
ことを言ってきました(137P)

■優生思想は、端っこにちょっとあるといった程
度のものであるのではなく、歴史上のいろいろな
思想や社会が優生思想がらみだったのです。(138P)