長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

労働者が労働者らしくなる手助け

5月のGWに、愛知学習協の合宿で
学習運動論について講義を
することになっている。

11月には茨城でも、労働者教育協会が主催する
学習教育運動セミナーで、学習運動論の講義をする。

自分が毎日のようにやっている運動だから、
経験を話せばいい、というものでも、ない。

学習運動の役割や重要性を
「目が覚めた」と言われるぐらいに、
くっきり、しっかり、伝えねばならない。

昨年、岡山でささやかな形ではあったが、
同じような学習会をした。
さらに磨きをかけねばならない。

労働者の学習教育運動を「ひと言」で
言い表すのであれば、
「労働者が労働者らしくなることを、手助けする」
運動である。

学習運動のなかで伝統的に使われてきた
言葉に、「労働者の階級的自覚の形成」
というものがあるが、それをさらにひらたく
言い直したらこうなるはずである。

難しく解説すればできるのであるが、
これまたひらたく言えば、
労働者が、「自分はナニモノであるか」が
“わかる”、ということである。

労働者は、真実を知れば、
その真実を生きようとする力を
もっている(困難な道ではあるけれど)。
それを信じて働きかけるのである。

ところで、
「自分はナニモノか」ということは、
なかなか自分では認識できない、
ということはよくある。

おおきくいえば、
私たちは、自然科学の発展によって、
自分は地球という星に生きていて、
約40億年前に誕生した生命の
進化の産物としての人間である、
という「自己認識」ができる。

歴史的・科学的なものの見方ができることで、
ものごとの本質にぐっとせまることができる。

あるいは、さまざまな角度から比較したり、
つながりの中で、
「自分」というものが見えてくる。

労働者は、労働者であっても、
その体験だけでは、「自分はナニモノか」
という自己認識はできにくいのである。

なぜなら、
労働者というのは歴史的存在であり、
かつ、
労働者らしく生きることを教えられる
機会が現在ほとんどないからである。

学ばなければ、
見えてこないことがたくさんあるが、
学ぶ機会や場が少ないのである。

労働者が労働者らしくなることは、
「労働組合が労働組合らしくなること」
に、まっすぐつながっている。

職場や地域に「学びの集団」を
つくろう、と呼びかけているのも、
切磋琢磨しながら学びあって、
みんなで労働者らしく
なっていこう、ということだと思う。

では、「労働者らしい」とは、
いったいどんな内容を持ち合わせているのか?

それは、講義で具体的に
お話したいと思う。

学習運動は、
労働者が労働者らしく、
労働組合が労働組合らしく、
自分たちの力を発揮することを、
学びの面からサポートすることを、
目的にしている。