対象の変化の法則性
ところで、対象の変化ととらえるための心得、についても
押さえておきたいと思います。これは哲学の弁証法の応用編
です。弁証法の変化の法則性はどんなものにも応用ができます。
対象の人であったり、職場であったり、社会や政治であったり、
自分自身の変化を考えるうえでも、有効性を発揮してくれます。
変化の法則性について、私なりにポイントを3つに整理してい
ますので、それをご紹介していきたいと思います。
まず1つ目は、量的変化が質的変化を準備する、ということ
です。変化というのは、目に見える変化、つまり質的変化が
いきなり起こることはありません。コツコツとした、なかなか
目立たない変化の積み重ねによって目に見える変化が準備され
ます。地道に、地味に、練習メニューをこなす、鍛える、磨く、
これを繰り返し、なおかつ継続します。もちろんそうした中で
もたらされる小さな変化に気づいて評価してあげることも大事
です。肝心なことは、目的意識的に量を準備する、ということ
です。学習会でも、1回だけで人が育つというのはありえません。
きっかけにはなりますが。継続したコツコツの繰り返しが必要
です。
2つ目の法則性は、育つということは、肯定をふくんだ否定を
つうじて行われる、ということです。その人が成長するという
ことは、その人がその人でありながら、以前のその人を否定する、
ということです。ややこしい言い方ですが、肯定をふくんだ否定
というのが、発展の法則性です。だから人に対してもダメだしが
必要なわけです。その人の発達課題に寄り添いながら、ちゃんと
意見を言う、ときには厳しいことも投げかける。これが大事です。
ただし、ご破算型・全否定でないダメだしです。理解しつつダメ
だし、伸ばすために評価する、こういう姿勢です。人間は良し
悪しあわせもって変化していきます。うねうねとした変化の仕方
をするわけです。だからその変化の仕方を受容する力、見極める
力が求められます。
3つ目は、矛盾が発展の原動力、という法則性です。ここで
いう矛盾というのは一般的に使う「つじつまがあわない」という
意味ではなく、ひとつの物事のなかに、相対立する傾向や要素が
ぶつかりあって存在していることを指します。そのぶつかりあい
によって物事は動いていくし、それが発展の原動力になる、
という見方です。ものごとのなかに相反することが併存している
状態です。これを「人間の成長」ということに応用してみると
どうなるか。「自分のなかに矛盾をつくる」「相手に矛盾をもっ
てもらう」となります。へんな言い方ですが。
ひらたくいうと、「目標」や「めあて」をつくる、ということ
です。目標がなければ、目標と自分とのギャップが生まれません。
ダイエットなどもそうですが、痩せたいと思わなければ、ダイ
エットで苦しむこともないわけです。「あと3キロ落としたい」
という目標があるから、自分のなかに「がんばらねば」という
自分と、「苦しいことから逃げたい」という自分が闘い始める
わけです。目標がなければ、こうした闘い、葛藤自体が生まれ
ません。「こうありたい自分」と「いまの自分」が自分のなかで
ぶつかりあう、それを原動力にして、成長・発展への契機が
つくられるわけです。だから育てる対象に「目標」「めあて」を
もってもらうように機会を提供する、これが大事です。
教育の姿勢として大事なこと
もう一度、「育つこと、育てること」について整理し、教育
の姿勢として大事なことを考えてみたいと思います。
育つ主体は自分でありその人です。内的な力です。でも土壌
や栄養が必要。きっかけ、つながり、環境のなかで人は伸びて
いきます。成長には、自然発生的成長(枠組み内での伸び)と、
目的意識的成長(矛盾をつくる)があります。また、自分ひと
りの力とともに、仲間と協力できる力の大事さを認識すること
も大事な成長課題です。
人は、自分が理解されること、他者からの適切な評価(自己
の成長に関心をもたれること)をエネルギーに変えます。「さ
らに成長したい」と思えるのです。相手を評価し、自信をつけ
させる、自惚れさせてあげることも大事です。精神科医の中沢
正夫さんは、「自分に惚れ、自分に自信をつける。そのことが、
次のステップに猛然と駆け上がるエネルギーとなるのである」
(『ストレス「善玉」論』岩波現代文庫)と述べられていますが、
ほんとうにそうです。自分はしょせん、自分なんか、となれば、
目標に向かってかけあがるエネルギーがわいてきません。ただし
自惚れは自分の心のなかにとどめておいて、あけっぴろげに
しないことも大事です(笑)。
育てる側の姿勢ですが、人の育ちは複雑怪奇でとっても個別
性が高いので、まず目の前の人(あるいは集団)の発達課題・
成長課題を発見することです。それをきちんと見定める力です。
「こうすれば全員がちゃんと育つ、うまくいく」という答えは
教育にはありません。そして教えるということは、学ぶことで
あり、教えるほうもとうぜん不完全な人間です。だから、模索、
工夫し続けることが大事です。完成はありません。どんな優れ
た教師でも、毎年毎年クラスは変わります。だから毎年毎年
模索です。苦労があります。それが人間を相手にする教育と
いうものです。
そして相手の問題意識を聞く。場をつくる。議論する。納得
を引き出す。なにより育てる人は育つ人から信頼されることが
大事です。人は信頼を寄せる人には心をひらいて、相談もして
くれます。自分は相手から信頼される人間であるのか?を問い
続け、自分も成長し続けることです。
また、すぐれた教育実践を一般化することも必要です。話し
たり書いたりして共有財産にしましょう。ただしその実践を
絶対化しないことです。他者を育てることで、自分自身がさら
に育つのが教育という営みです。だから喜びや楽しさを内包し
ています。難しいですが、楽しい。教育自体がおおいなる矛盾
をかかえています。
世代間の違いを楽しむ
ここで注意したいことは、若い世代にたいしては、背負わ
されてきた「時代の圧力」を理解の前提にすることです。もち
ろん個人個人で現れ方はちがいますが、1人ひとりがこの社会
のなかで育ってきたのであり、1人ひとりの困難・課題の背景
には社会的・時代的背景があります。それを考えずに表面だけ
で若い世代を見ないことは心がけたいものです。もちろん世代
間の違いに戸惑うことも多いでしょう。私は、その違いを楽し
めるか、おもしろがれるか、ということがポイントだと思いま
す。世代が違えば文化も言葉も違う。でもそれを否定せずに
おもしろがれるか、違う文化との出会いを自分の刺激にしちゃ
いましょう。
育てる人以上に、自分が自分の成長に貪欲でしょうか。自己
投資しているでしょうか。教育欲はありますか。相手にぐんぐん
と成長してほしいけど、「追いつけるものなら追いついてみろ」
というような姿勢で自分もさらに成長していく。自分がそうした
熱いものをもっていると、周りの人へ与える影響が変わって
きます。
ピカピカ光る背中をもつ人
『学習する組織-現場に変化のタネをまく』(光文社新書)と
いう本で著者の高間氏が、NTT東日本の法人営業本部の役員に、
インタビューしたときのことです。「戦略は何ですか」と聞いた
ら、「学習機会をつくる」というのが答えの一つとして返ってき
たそうです。「学習機会とは何ですか」とふたたび聞いたところ、
その役員は、「それはピカピカ光る背中を持つ人間の周りをウロ
ウロできることですよ。しかし問題は、ピカピカ光る背中を持つ
人間が法人営業に20人しかいないことかな」と言ったそうです。
著者はその答えに驚かされて、また納得し、こう書いています。
「人は自分の接する社会、つまり周囲の人や本、インターネット、
様々な経験などから主体的に学習する。その中でも他者との相互
作用から一番多くを学ぶと私は思う」「今の若い人たちは、子供
の時分から学校を出るまでの成長過程で接する人物の数が、昔より
も少ない傾向にある。・・・その結果、客観主義による勉強は
してきたが、人々との相互作用で行われる社会構成的な学習機会
が少ないので、社会性が低くなる傾向があるのではないだろうか」
「問題は、ピカピカ光る背中を持つ人間に運がよくないとめぐり
合えないことである」
ピカピカ光る背中とは、「めあて」「あこがれ」となる存在で
あり、学びあい高まりあううえで最高の模範です。つまりどんな人
と一緒に働いているか、活動できるか、出会うかが、人の育ちに
とってとても大事な栄養素になるのです。だから、職場や活動の
なかに、そうした人をたくさんつくっていく。それを目指してい
きたいものです。そして最終目標は、相手が自分から離れていく
ことです。自分で自分を伸ばす力がつくことです。
民主主義の前提は表現の自由
育ちあう場の前提条件としての民主主義について考えてみたい
と思います。決定的なのは、職場や活動のなかで、表現(とくに
言葉による伝えあい)の自由があるかどうかです。それぞれが
自分の言葉をもって、意思決定に参画することです。
しかし、職場・活動のなかにはさまざまな「力」が働いていま
すし、それはなくせません。上司と部下。役員とそうでないひと。
先輩と後輩。経験がある人ない人。年齢。雇用関係。ジェンダー。
こうした力関係があります。強者と弱者、声の大きいひと小さい
ひとがかならずいる、ということを認識することです。会議など
でも、よく発言する人、ずっと黙っている人がいると思います。
全員が当事者として意思表示するというのは、どんな組織や活動
でもなかなかたいへんなことなのです。人間集団の力関係を完全
にフラットにすることはできないからです。家庭でも職場でも
活動でも。
したがって、「力」をもっている側の姿勢(民主主義)が問わ
れます。自由にものが言い合える雰囲気やしかけをつくるのは、
力を持っている側の努力が必要なのです。日頃のコミュニケー
ションも大事しましょう。
民主的でない職場・活動は、表現の自由が制限されている状態
です。参画できない。一方通行です。集団のなかの関係性がよく
なると、自己を否定される恐れがなくなります。場が安全になり
様々な異なる意見が提示されるし、失敗を恐れて何もしないという
状態から抜け出します。
民主主義的訓練が積み重ねられていくと、「~しあう」関係性
が生まれてきます。学びあう、話しあう、高まりあう、認めあう、
気づきあう、支えあう、助けあう…。そして1人ひとりが均質で
はないからこそ、「~しあう」関係性が生まれる集団の力は想像
以上に大きくなるのです。
外へ外へ
付け加えておきたいことは、成長するのは職場・労組のなか
だけではありません。外へ外へということです。世界は広い。
異質なもの、異質な人とたくさん出くわすことです。職場のなか
だけの成長には限界があります。自分たちの活動とあわせて、
さまざまな活動に足を踏み入れてみる、顔を出してみる、これを
姿勢としてもっておきたいものです。
以上、教育の姿勢やそもそもについて、一般的な原則を問題
提起させていただきました。これを具体的に職場や活動で応用
するのは、みなさん方です。その実践をまた持ち寄って、一般
原則にも磨きをさらにかけていく。教育という営みはこうして
つねに実践と一般化の往復関係のなかで鍛えられていくのだと
思います。だから教育活動を学びあう場をたくさんつくりましょ
う。そしてそれをさらに日々の実践に生かしていきましょう。