昨夜(14日)は、93期岡山労働学校の第7講義。
テーマは「憲法の人間観―人間の尊厳と個人の尊重」でした。
24名参加。
今期はほんとうに雰囲気がいいです。
受講生の関係性も回を増すごとに深まっているなと思います。
講義の概要は以下。
一。日本国憲法のそもそも
◇憲法とはそもそもなんでしょう。
◇日本国憲法の生まれた時代背景
■人間を人間と思わなくなる戦場・戦争。
国家や民族を優先する全体主義。「個」の消失。
二。日本国憲法の人間観-尊厳を中心に
1。尊厳とは
◇第2次世界大戦以後、再確認された価値観(人間観)―世界人権宣言より
◇各国の憲法にも
◇人間であることを説明する言葉
◇「人間の尊厳」と「個人の尊厳」
2。尊厳(人間をどうみるか)をめぐってせめぎあいの時代
◇長久の身近なところでも
―「オムツを使わないのはわがままなんじゃないですか」事件
◇「LGBTには生産性がない」と言い放った自民党国会議員
*偏見、レッテル、十派ひとからげ。自分と違う人を排除・攻撃。
◇労働者がモノや機械のように扱われていないか?
奴隷になっていないか?
*「役立つかどうか」「できるかどうか」。労働者への評価が、
能力主義にかたより。
*必要でなくなったら切り捨て。
有期雇用なども人間扱いしていない現われ。
*「『不良品をよこすなよ。とっとと返品して』 それは、“妊娠
している派遣社員”の私のことだった」
(小林美希『ルポ 職場流産』岩波書店、2011年)
◇女性を商品やお飾りとしてみていないか?
■人権侵害は、強弱関係がはっきりした関係性のなかで起こりやすい
*人権侵害をするのは、強者。だから運動・連帯や、たたかい
なくして人権は守れない。
【日本の「人権教育」の問題点】
*マイノリティー問題(女性、子ども、高齢者、障害者、
同和問題、外国人、LGBTなど・・・)の学習が中心となり、
「思いやり・やさしさ・いたわり」といった道徳的価値の
学習に変質されやすい。憲法学習や権利学習は表面的。
*「思いやり」を強調する啓発は、「弱者に対する配慮」や
「あたたかな人間関係」による問題解決を理想として描き
出す一方で、「弱者とされる側」が権利を主張したり、
その実現を求めて立ち上がるような「争議性」のある解決
を回避し、そうした運動のシーンを啓発の中でとりあげよ
うとはしない。「心のもちよう」によって人権問題を解決
しようとするアプローチは、「国家」と「市民」の関係は
介在せず、人権を実現する公的機関の責務や、法・制度の
確立による解決の道筋がみえてこない。
◇人権にたいする知識、感度をみがき続ける努力が大切。
*人権感覚は、もろい。さびつきやすい。呪いの言葉が氾濫している。
①違和感を持つこと、おかしい、不当だなと感じること。
②その「モヤモヤ」が、具体的に「人権の侵害だ」と認識でき、
対応できること。知識。「わたし」の問題が、社会の規範・
理念に対する侵害だと普遍化される。
③さらに日本の現状と照らし、「こういう法整備が足りない」
「政治における具体的課題」としてニーズ化できること。
*しかし、若い世代はとくに、人権感覚をみがくトレーニング
機会を奪われてきた。
*人権感覚をみがき続けるには、1人ではむずかしい。人権を
守り発展させようとする運動や集団のなかで、人権感覚も
みがき続けられる。労働組合はトレーニングに最適の場。
さいごに:「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の
不断の努力によつて、これを保持しなければならない」
(12条)←憲法は、行動する主権者を想定している。
以上。
感想文をいくつか紹介します。
■尊厳ってなんとなくで使っていたなと気づかされ
ました。人間の尊厳と個人の尊厳、どちらも大事
ですが、今こそ個人の尊厳が改めて問われていると
感じます。
■「人権は人の感情に左右されない」。人権感覚は
あるか?と常に問いかけ続けたいと思いました。
日本国憲法で好きな条文の1つが第12条です。
その中の「国民の不断の努力によって」という
言葉が特に好きです。
■人権感覚は「もろい」「さびつきやすい」という
言葉がすごく印象に残りました。ずっとみがいて
いないと、くすんでしまうと感じました。人権とは、
人間とは・・・今後も考え続けていきたいと思います。
■「人権は感情に左右されてはならない」。この
言葉を常に意識して仕事はもちろん生活をして
いきたいと思いました。今回の講義はとてもタメに
なりました。ありがとうございました。
■憲法とか世界人権宣言とかの根本的なものを読むと、
自分の存在がすごく肯定されている感じがして、目の
前がパーッとひらけて解放される気持ちになる。どれ
だけ普段、尊厳を削りとられているのかなと思う。
インプット・アウトプットだいじ。アウトプットを
きいて、一緒に話せる場だいじ。やっぱり、自分の
感覚も大事だと思った。感覚→言語化。自分の考えを
言ったときに「それは違うんじゃないかな」と言って
くれる人もだいじ。