長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

「疎外論」読書メモ

きょう、マルクスの「疎外論」を考えていたとき、
そーいえば、と思い出して
『若者よ、マルクスを読もう』(内田樹・石川康宏、かもがわ出版)
を手に取りました。

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あるあるー。『経済学・哲学草稿』について。えへへ。

 

 

お昼休みに、一気にこの部分を読み返しました。

いやー、問題意識をもって読むと、より面白いですね。

たいへん刺激的でした。

 

 

以下、メモです。



*  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 
 
「労働者」の検討に挑んだマルクスは、私的所有の

もとでは、次のような四つの側面をもつ「労働の疎外」

あるいは「人間の疎外」が生まれることを指摘します。

 A.労働者にとって「労働生産物が、ひとつの疎遠な

存在」となってしまうこと―生産物が労働者のものでは

なく資本家のものになってしまうということです。

 B.「労働が労働者にとって外的」なものになってしま

うこと―労働が自分の喜びではなく、資本の指揮による

強制のもとでの苦痛になるということです。

 C.「類的存在」としての生活が「個人的生存の手段」と

されること―ここはいろいろな解釈がありえますが、

大きくは、毎日の生活が、各人の生存の手段におとしめ

られているということでしょう。

 D.「人間からの人間の疎外」が生まれること―人と人と

の関係が、人間本来の共同的なあり方を失ってしまう

ということです。

 人間(労働者)の労働が本来もつはずの豊かな内容が、

私的所有のもとでは失われている。その喪失の状況を、

マルクスはここで「疎外」という抽象的な言葉で表現して

います。                  (石川、121P)

 

 マルクスは、いまある労働の疎外が、どのようにして

生まれてきたのかというふうに、問題を歴史的に立てる

ことができるなら、それは疎外を生み出す歴史的条件を

明らかにすることにもなるのだから、その条件の変更を

つうじて、疎外のない社会に向かう道も明らかになると

いうのです。                (石川、125P)

 

 「疎外された労働」を書くマルクスはかなり熱いです。

読者のみなさんには、それを感じてほしいと思います。

地代とか利子とか労賃について書いているときより体温

が上がっている。

 それだけ、「疎外」という言葉は、マルクス自身の身体

実感として、ということは一九世紀なかば、ヨーロッパ資本

主義の勃興期においてリアルだったんだろうなと思います。

 ここに伏流しているのは、同時代の労働者たちのあまり

に悲惨な労働状況への憤りと、そこで苦しむ労働者たちを

すぐにこの劣悪な労働環境から救い出さなければならない

という焦燥感のにじむ使命感だったと思います。

                          (内田、147P)

 

 疎外論の出発点が「自分の悲惨」ではなく、「他人の悲惨」

に触れた経験だったということ。マルクスは「私たちを疎外

された労働から解放せよ」と主張したわけではありません。

「彼らを疎外された労働から解放するのは私たちの仕事だ」

と主張したのです。この倫理性の高さゆえにマルクス主義は

歴史の風雪に耐えて生き延びることができたのだとぼくは

思っています。

 若い人たちにぜひ読んでほしいのは、「疎外された労働」

について語るときのマルクスのその熱さです。貨幣や地代

のことなんか、極端な話、どうだっていいんです(なんて言う

と石川先生に怒られちゃうけど)。マルクスの人間的なとこ

ろは、「疎外された労働者」たちのことを考えるとつい興奮

しちゃうところなんです。アンフェアな社会の実状を看過でき

ないところです。一人の青年が「人間的に生きるとはどういう

ことなのか」を突き詰めて、その当時の思想や学問を渉猟し、

採るものは採り、棄てるものは棄てながら、全速力で「自分の

言葉、自分の思想」をつくりだしてゆく、その切迫感を若い人

にはぜひ感じ取ってほしいと思います。 (内田、152~153P)