長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

本など、VS、芦部憲法

最近読み終えた本。

 

 

 

『本などいらない草原ぐらし』(椎名誠、角川文庫、2006年)

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タイトルとは逆に、シーナさんがどれだけ読書家で、

さまざまな本を買い、持ち歩きながら読んでいるかが

伝わってくるエッセイ。

 

「相変わらず『島』と聞くと静かに激しくムナサワギを感じる。

忙しくなればなるほどどこかの島へ行ってみたいと思う」

 

に、はげしく共感。

 

「瀬戸内海や九州あたりが無人島、小島の宝庫」

 

やっぱりそうですよねー、と思う。

 


 

 

『自民改憲案vs日本国憲法ー緊迫!9条と96条の危機』

(上脇博之、日本機関紙出版センター、2013年5月)

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100ページほどでコンパクト。あらたにいくつかの発見が。

しかし、憲法改正手続きまでも、様々姑息な方法でゆがめ、

緩和する改憲派。きみたちにプライドはないのか。

 

以下、メモ。

 

「今の二院制は、当時、憲法改正を審議していた中で

GHQ側の一院制論に抵抗して実現したものです」

 

「既存の憲法の同一性(アイデンティティー)を維持していな

ければ、憲法改正とはいえません」

 

 

 

 

 

『憲法 第5版』(芦部信喜著・高橋和之補訂、岩波書店、2011年)

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400ページの憲法テキスト。

半月ほど前から少しずつ読みすすめ、やっと読了。

いやー、勉強になった。

安部首相も、芦部テキスト、勉強したほうがいいよ。

 

以下、メモ。

 

「一定の限定された地域(領土)を基礎として、その地域に

定住する人間が、強制力をもつ統治権のもとに法的に組織

されるようになった社会を国家と呼ぶ。したがって、領土と

人と権力は、古くから国家の三要素と言われてきた」(3p)

 

「日本国憲法前文は、国民が憲法制定権力の保持者で

あることを宣言しており、また、近代憲法に内在する価値・

原理を確認している点で、きわめて重要な意義を有する」(35p)

 

「明治憲法においては、天皇の地位は天照大神の意思、

つまり神勅に基づくとされていたのに対して、日本国憲法

においては、天皇の地位は『主権の存する日本国民の

総意に基く』(1条)ものとされる。したがって、天皇制は

絶対的なもの、不可変更的なものではなく、国民の総意

によって可変的なものとなった」(44p)

 

「憲法1条の象徴天皇制の主眼は、天皇が国の象徴たる

役割をもつことを強調することにあるというよりも、むしろ、

天皇が象徴たる役割以外の役割をもたないことを強調

することにあると考えなければならない」(46p)

 

「日本国憲法は、14条以下において、詳細な人権規定を

置いている。しかし、それらの人権規定は、歴史的に国家

権力によって侵害されることの多かった重要な権利・自由

を列挙したもので、すべての人権を網羅的に掲げたもの

ではない」(118p)

 

「個人尊重の幸福追求権は、憲法に列挙されていない

新しい人権の根拠となる一般的かつ包括的な権利であり、

この幸福追求権によって基礎づけられる個々の権利は、

裁判上の救済を受けることができる具体的権利である、

と解されるようになったのである。判例も、具体的権利制

を肯定している」(119p)

 

「思想・良心の自由は、内面的精神活動のなかでも、

最も根本的なものである。諸外国の憲法においては、

信仰の自由や表現の自由とは別に、とくに思想の自由を

保障する例はほとんど見当たらない。それは、内心の

自由が絶対的なものと考えられえきたこと、また、思想の

自由が表現の自由と密接に結びついているため、表現

の自由を保障すれば十分であると考えられていたこと、

に基づく。しかし、わが国では、明治憲法下において、

治安維持法の運用にみられるように、特定の思想を

反国家的なものとして弾圧するという、内心の自由その

ものが侵害される事例が少なくなかった。日本国憲法

が、精神的自由に関する諸規定の冒頭において、思想・

良心の自由をとくに保障した意義は、そこにある」(146,147p)

 

「思想・良心の自由が不可侵であることの第二の意味は、

国民がいかなる思想を抱いているかについて、国家権力

が露顕を強制することは許されないこと、すなわち、思想

についての沈黙の自由が保障されることである。国家

権力は、個人が内心において抱いている思想について、

直接または間接に、訊ねることも許されないのである。

したがって、たとえば、江戸時代のキリスト教徒の弾圧の

際に行われた『踏絵』、あるいは、天皇制の支持・不支持

について強制的に行われるアンケート調査など、個人の

内心を推知しようとすることは、認められない」(147,148p)

 

「憲法23条は、『学問の自由は、これを保障する』と定める。

学問の自由を保障する規定は、明治憲法にはなく、また、

諸外国の憲法においても、学問の自由を独自の条項で

保障する例は多くはない。しかし明治憲法時代に、1933年

の滝川事件や35年の天皇機関説事件などのように、学問

の自由ないしは学説の内容が、直接に国家権力によって

侵害された歴史を踏まえて、とくに規定されたものである」(164p)

 

「表現の自由は、すべての表現媒体に及ぶ。演説、新聞・

雑誌その他の印刷物、ラジオ、テレビはもちろん、絵画、

写真、映画、音楽、芝居などの表現も保障される。集会・

結社も、集団ないし団体としての思想・意見の表明をと

もなうので、伝統的ナ言論・出版の自由(狭義の表現の

自由)と密接に関連し、それと同じ性質の、ほぼ同じ機能

を果たす権利である。ヨーロッパ諸国の憲法では、集会・

結社の自由と言論・出版の自由とは沿革的に区別して

考えられ、別々の条文で定められるのが通常であるが、

日本国憲法はアメリカ合衆国憲法にならい、両者を広く

表現の自由として保障し、その中に集団行動による表現

の自由も含めている」(175p)

 

「集会の自由は、表現の自由の一形態として、重要な

意義を有する。判例も、『集会は、国民が様々な意見や

情報等に接することにより自己の思想や人格を形成、

発展させ、また、相互に意見や情報等を伝達、交流

する場として必要であり、さらに、対外的に意見を表

明するための有効な手段であるから、憲法21条1項

の保障する集会の自由は、民主主義社会における重

要な基本的人権の一つとして特に尊重されなければ

ならない』、と述べている(最大判平成4・7・1民集46巻

5号437頁)」(205p)

 

「経済的自由は、精神的自由と比較して、より強度の

規制を受ける。憲法22条が、とくに『公共の福祉に反し

ない限り』という留保をつけているのも、公権力による

規制の要請が強いという趣旨を示したものである」(216,217p)

 

「日本国憲法は、18条において、人権保障の基本とも

言うべき奴隷的拘束からの自由を定め、31条以下に

おいて、諸外国の憲法に例をみないほど詳細な規定を

置いている。これは、明治憲法下での捜査官憲による

人身の自由の過酷な制限を徹底的に排除するためで

ある」(234p)

 

「住居は人の私生活の中心であり、古くから、その不可侵

はすべての人権宣言の保障するところとなっている。

日本国憲法は、『住居、書類及び所持品』について、恣意

的な『侵入、捜索及び押収』を禁止している(35条1項)」(240p)

 

「『公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを

禁ずる』(36条)。被疑者または被告人から自白を得る

手段として諸外国で行われた拷問は、日本でも明治憲法

時代、法律上禁止されていたにもかかわらず、実際には

しばしば行われたので、憲法でとくに『絶対に』禁ずること

にしたのである」(247p)

 

「国家作用のうちで、最も大きな組織・人員を擁して国民

生活に密着した多様な活動を行うのは、行政作用である。

とくに現代の福祉国家においては、国民生活の全般に

ついて積極的に配慮する行政活動が要請されている。

その行政活動全体を統括する地位にあるのが、内閣で

ある」(312p)

 

「司法権はすべて通常の司法裁判所が行使するので、

『特別裁判所は、これを設置することができない』(憲法

76条2項)。ここに言う特別裁判所とは、特別の人間ま

たは事件について裁判するために、通常裁判所の系列

から独立して設けられる裁判機関であり、戦前の軍法

会議がその典型である」(337p)

 

「日本国憲法は、前文で、人権と国民主権を『人類普遍

の原理』だとし、『これに反する一切の憲法、法令及び

詔勅を排除する』と宣言している。これは、ただ政治的

希望を表明したものではなく、以上のような、憲法改正

に法的な限界があるという理論を確認し、改正権に

対して注意をうながす意味をもっている」(387p)