長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

2つの認識過程について

さきほど、労働者教育協会の須藤事務局長から電話があって、
「ついでの話」で、先日の愛知での労働学校交流会での
ぼくの問題提起のなかで「認識論」の部分が印象に残ったと。

あー、そうか、と思いつつ、
しゃべったことちょい膨らませて、以下に書いておきます。


人間の認識過程には、2つの方法がありまして、
ひとつは自分で対象そのものを見聞きすることによる認識です。
もうひとつは、他者の認識を借りて判断する、
という方法があります。

たとえば天気について。
自分で空を見て「あ、今日は雨が降りそうだ」と思えば、
傘をもっていこう、という判断になります。
でも、いまはたいていの人はいちいち空を見上げて
天気を予測するなんてことはせず、
圧倒的に気象予報士の認識を借りているわけです。
観測手段も知識も圧倒的にちがうわけですから当然ですが。
そしてお天気ニュース・情報は、簡単にどこでも手に入ります。

私たちは社会や政治にたいしても、
同じような2つの認識過程を組み合わせながら判断しています。

自分で現場に行く、第1次情報にせっする、
これはものすごく大事です。
ただ、社会で起こっていること、政治情勢、
これを全部現場で見聞きするなんてことは不可能ですので、
私たちはほとんどのことを「他者の認識」を借りて判断しています。
テレビ、新聞、雑誌、人の話を聞く、
ネット、本、SNSもその手段です。

いまはメディアがとてつもなく発達していますので、
私たちはメディアの情報から多くを判断しています。
メディアリテラシーが必要になる理由がそこにあるわけです。

たとえば沖縄の辺野古新基地建設問題です。
できうるなら、沖縄の現地や、キャンプシュワブのゲート前に行って、
自分の目で何が起こっているのかを知ることが一番です。
ただ、本土の私たちは簡単に沖縄には行けません。
だから、どのような「他者」の認識を借りて、
この問題を判断するのか、というこが大事になるわけです。

沖縄の地元の新聞社の情報や、
座り込み行動に参加している人の発信する情報と、
産経新聞や読売新聞の出す情報では、
自分の認識がまるで変わってしまうでしょう。
(もちろん産経や読売のなかにも事実認識の
助けにある部分は多分にあります)

ひとつの情報源だけに認識を頼る危険もあります。

だから、どういう「他者たち」の力を借りるのかを
見極める力、取捨選択する力が必要です。
「他者の認識」を絶対化しないということも
大事な姿勢になってくるわけです。

5200万人もいる雇われ組の労働者が、
社会や政治に対して本質にせまるような認識をしてしまえば、
政治は変わります。単純にいえば自民党に投票しなくなりますから。
だから支配階級はいつの時代でも、思想的なたたかい、
情報をめぐるたたかいを特別重視します。
とくに安倍政権は顕著にマスメディア対策をおこなっています。

そうしたメディアの情報に認識をひっぱられてしまう、
誤った認識をさせられてしまう、そういう仕組みになっています。

私たちの独自メディアの形成と普及、
そして学習運動の役割のひとつが、
この認識論の問題からも考えることができるのです。