長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

茨城セミナー講義概要(3)

基礎理論学習の重視
 
後半に移ります。学習教育運動では、基礎理論学習を特別に
重視しています。なぜなら、基礎理論学習は、活動への自信を
つけてくれるからです。現象から本質へ、結果から原因へ、
部分から全体へ、ものの見方・視野をぐっと深めることができ
るからです。
 私たちは、めまぐるしく動く情勢・課題のなかで生きてい
ます。ニュース、あふれる情報・・・それらはあくまで認識の
出発点であり「部分」です。若い世代はネットニュースが情報
源の大きな部分を占めています。それは「背景」「つながり」
を欠いた情報ともいえます。そして私たちは、日々の生活の
なかで、「部分」だけでだいたいのものを判断しているし、
当面はそれでも困らないわけです。ものごとの背景や全体像、
原因にまで認識を発展させることは労力が必要です。
 現代日本は、蜘蛛の巣のように「ウソ」が張り巡らされて
いる社会です。メディアは第4の権力として、ウソの情報、
本質をみせない情報を流し続けています。消費税と社会保障、
原発、集団的自衛権…。最近は本当に露骨にウソをつきます。
その情報を鵜呑みにせず、メディアリテラシーを身につける
努力が必要であり、事実・背景をたしかめていく作業が必要
です。でもそれはめんどうくさい。本質をつかむことは簡単
ではありません。だからこそ、それを集団で、目的意識的に
進めることが必要なわけです。
 
 本質にせまる努力、という点では、学習教育運動は「そも
そも論(基礎理論)」を大事にしています。「そもそも」とは、
「問題となる事柄を論じるのに先立って、その根源にさか
のぼって事を説き起こす様子」(三省堂『新明解 国語辞典』
第七版)ということです。人間とは、社会とは、労働組合とは、
賃金とは、活動とは、団結とは、人権とは…こういう根源に
さかのぼる学びです。
 基礎理論を繰り返し学ぶことで、そもそものところに立ち
返って考えることができる。そうすると、表面的な情報にふり
まわされず、自分の頭で社会や職場のことを考え、次の一手を
うつことができます。「活動への自信」が育つともいえます。
主体性の獲得です。
 哲学でいえば、考える力。そもそもを問う姿勢。事実をたし
かめる姿勢。現象から本質へ。結果から原因へ。部分から全体
へ。変化の法則性。過程としてとらえる。木も森もみる。
 経済学は、商品、お金、賃金、搾取。富と貧困。資本主義の
歴史。その矛盾。労働者階級の力への認識。自分の立場への認
識。職場の見方が変化します。
 階級闘争の理論(社会発展の理論)は、社会を動かす原動力。
組織の力。連帯する意味。政治に強くなる。変革の道すじ。
処方せんとその方法を具体的に学びます。

太い線で人間関係をとらえる
 
たとえば、日本の労働者の現状を、太い線でとらえるには、
社会科学の認識が欠かせないわけです。神戸女学院大学の石川
康宏教授は、内田樹さんとの往復書簡本である『若者よ、マル
クスを読もうⅡ』(かもがわ出版)でこう指摘されています。
 「一生懸命夜遅くまで働いている人間がまともに飯も食えな
い社会っておかしいだろうと、ホントに肌身で思いますね。
…この問題では、資本主義の構造をどうとらえるかという、
そもそも論が大事だと思います。学生たちは就職活動をします
が、就職活動というのは、自分を雇ってくれる人間を探す活動
ですよね。自分は雇う側ではなく、雇われる側にある。この社
会には、雇う側と雇われる側の人がいて、雇われる人が雇う人
に『私の労働力を買ってください』とお願いするのが就職活動
ですね。マルクスはその労資関係を、資本家による労働者の搾
取という対立面と、互いに別れては生きられない相互依存面の
併存すなわち矛盾としてとらえていきました。そして、働く
エネルギーの使用から儲けを蓄える人と、『労働の対価』とい
う名目で生活ギリギリの賃金をもらう人では、経済的な立場が
違っている。マルクスはそこに、資本主義社会における階級対
立の根本を見ていきました。社会の人間をわける一番太い線を
そこに引いたのです。ところが、その線の同じこちら側にいる
のに、男と女の労働条件の差別、正規と非正規の格差、民間と
公務との差がつくられて、それぞれに諍(いさか)いが煽られ
ます。意図的に分断されるわけですね。本当なら手をつないで、
太い線の向こうにいる人たちに対して状況の改善を迫る取り組
みをすることが必要なんだけど、太い線がどこにあるかわから
なくなっている人が多い。それが仲間割れの要因になるわけで
す。…そこを見抜くためにも、マルクスをかじっておくことは
大事だと思いますね」 

 この太い線は、たとえば「生産手段」や「階級」、「労働力」
という概念を自分のものにする、言葉をにぎることによって
「見えてくる」ものです。社会科学の認識は、それまで見えな
かったものが見えてくることでもあります。だから目からウロコ
のおもしろさを持っているし、生き方そのものを変えていく力が
あるのです。

階級的自覚の形成
 
学習運動の目的の柱は、労働者階級の階級的自覚の形成と広
がりをつくりだすことです。労働者教育協会の「2010年代
の活動を展望した『提言』」では、「階級的自覚とは、自分が
労働者だと自覚するだけでなく、労働者階級が社会全体のなか
でどのような地位にあり、その状態からの解放のために何をど
のようになすべきかという自覚です。さらに言えば、自分が労
働者階級の一員であると自覚し、みずからの解放のためには、
全国的に団結し、政治を変革しなければならないことを理解す
ること」と説明しています。
 もっとひたらく言い換えるとするならば、労働者が労働者
らしくなる。そういう労働者が増えることによって労働組合が
労働組合らしくなる。そういうことに寄与するのが学習運動の
目的だということです。労働者が労働者らしくなる、という
ことは、いろいろな要素があると思いますが、たたかいへの
自覚、連帯という生き方、敵を見誤らない力、団結という喜び、
などなどこうしたことを一つひとつ獲得していくことだろうと
思います。

社会科学の概念に成熟する
 
こうした自覚をつくるには、「労働者」「階級」「生産手段」
「搾取」「資本」など・・・社会科学、基礎理論学習が不可欠です。
部分・表面の情報にふれるだけでは、この認識への到達はむず
かしいからです。また、そうした概念に成熟することも大事です。
教育学者の佐貫浩さんは、『学力と新自由主義』(大月書店)で
こう指摘されています。長いですが引用します。

 「いま、社会科学の概念をとりあげてみよう。民主主義、人権、
資本主義、搾取、帝国主義、利潤etc。私たちはこれらの概念を
駆使して思考し、コミュニケーションをおこない、考えを伝達し
あっている。それらの概念は、幾度もその意味するものを学習し
ていくなかで、次第に深い意味とイメージを持つようになり、
そういう深い意味を保持したままで、ひとつの概念としていつ
でも想起され、応用されるようになる。さらにこれらの概念が
生活感情や歴史観や価値観、正義の観念などと結合することで、
個々人における価値判断基準としての能動性を持つようになる。
そしてそういう概念を思考の道具として操作することで、瞬時に
その概念が持っている深い意味を思考過程に組み込み、複雑かつ
高度な思考を展開することができる。そういう概念の獲得は、
社会科学領域の学力の重要な要素となる。そういう概念を使って
思考し、表現するとき、その概念があらためてどういうものであ
るかを意識してたどり直さないという点では、その概念の内容は、
いわば『自動化』されている。にもかかわらず、その概念を使用
した思考の中で、必要に応じて概念の意味が再吟味され、豊富化
されることもある。そういう意味で、概念を使用するとき、その
概念はほとんど『自動化』されているにもかかわらず、いつでも
必要に応じてその意味や規定が呼び戻され、意識的に再吟味に付
されうるアクティブな状態にあると見ることができる。そう考え
るなら、能動的な社会認識過程は、それまでに獲得され習熟され
た多くの概念に支えられているということができる。そういう概
念についての習熟は、ただ言葉による概念規定を記憶することに
よってではなく、その概念の使用を繰り返し、生活の経験や歴史
の経過や獲得した知識等々とその概念との突き合わせによる概念
内容の豊富化、諸知識との関連の形成、価値意識の組み替え、
等々と結びついて可能となるものであろう」

連帯は世代をこえるという認識
 
概念に習熟することで、能動的な社会認識がつくれる、という
のは、本当にそのとおりだと思います。
 こうした認識に支えられる階級的自覚は、自分(たち)の生き
方を歴史的にとらえる力にもなります。労働者階級とは歴史的に
どういう存在なのか、いま勝ち取られている働くルールなども、
その1つひとつが、先輩の労働者が闘いとってきたものである
ことも、学べば見えてきます。そうすると、同時代の人びととの
連帯だけでなく、過去や未来のなかで自分の位置や立場を発見し、
過去の世代や未来の世代との「つながり」も意識できます。労働
者の連帯というのは、世代とか国をこえるものですから。