長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

沖縄からの本土爆撃

最近読んだ本。

『沖縄からの本土爆撃~米軍出撃基地の誕生』
(林博史、吉川弘文館、2018年)

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米軍の沖縄戦そのものが、
日本本土進攻のために出撃基地確保という目的をもっていた。

4月1日の上陸後、すぐさま滑走路の接収・整備・拡張が行われ、
沖縄戦の真っ最中、すでに南九州や奄美諸島などへの爆撃が
頻繁に行われていた。
そして次第に民間人への無差別爆撃へと変貌していく。
知らなかったことばかり。1つ1つの爆撃を丹念に追求。
記録と記憶の歴史空白を埋めるこうした研究はきわめて貴重。

「沖縄に建設された基地―本書で扱ったのは飛行場であるが、
その後方支援施設も含めて―は、人々を殺傷し生活を破壊する
ための出撃基地であった。米軍はそうした非人道的な殺傷行為
を正当化し、今日にいたるまでなんらの反省もしていない。
反省しない者は同じことを繰り返す。その後も朝鮮戦争の際に
嘉手納基地は、東京の横田基地とともに朝鮮半島へのB29に
よる無差別爆撃の出撃基地となったし、ベトナム戦争の際には
B52によるベトナムへの無差別爆撃の出撃基地になった。
…今日でも中東方面など世界各地への米軍による侵略と軍事介入
の出撃・中継拠点であり続けている。沖縄の米軍基地が日本の
人々を、まして沖縄の人々を守るための存在だったことなど
一度でもあっただろうか」「戦時中の報道などを見ると、爆撃
した米軍機が沖縄からやってきたことを記しているものが思い
のほか多かった。しかし今日、そのことが空襲を調べてきた
一部の市民や研究者を除くとほとんど日本人の『記憶』からは
消え去っているように思われる。沖縄の米軍があれほどの
非人道的な犯罪行為をおこなっていたことは、今日の日米軍事
同盟を盲目的に信奉し、沖縄の米軍が日本を守ってくれていると
信じたい日本人にとっては消し去りたい『記憶』、というよりは
抹殺したい歴史だからかもしれない」(226~227P)

沢山さんの新刊です。

岡山労働学校などで以前、
数回講演いただいた沢山美果子さんが、
岩波新書から新刊を出されました(8月刊)。

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『性からよむ江戸時代~生活の現場から』820円+税)です。

江戸時代の人々の性意識や規範を、史料から丁寧に読み解いています。
現代の価値観から批評するのではなく、
その時代に生きた人に寄り添う姿勢が印象的です。
興味のある方は、ぜひ手に取ってみてください。

第1章:交わる、孕む―小林一茶『七番日記』
第2章:「不義の子」をめぐって―善次郎ときやのもめごと
第3章:産む、堕ろす、間引く―千葉理安の診療記録
第4章:買う男、身を売る女―太助の日記
第五章:江戸時代の性

おでかけ&おでかけ

前日体調崩したので、どうなるかと思いましたが、
日曜日(20日)、相方の体調は無事に回復し、前から予定していたお出かけ。

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高島屋の北海道展に!
並んでいた商品はいつもの感じでしたが、
人は思ったより少なかったです(^_^;)
相変わらずの次々爆買い!

新しくなった岡山駅のさんすて、
時間ありコープ大野辻も寄るという充実ぶりでした。

 

 

続いて火曜日(22日)もお出かけ!
天気良好につき瀬戸大橋を渡り与島へ。

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展望台に登ると、ひろーい空!! 秋の雲で気持ち晴れ晴れ。

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そのあとは美観地区へ。
ステーキランチとワインで相方はご満悦。

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お土産用にマスキングテープなどを爆買い。
さらにうろうろしながら、帰ってきました。よい1日でした。

社会権再生への連帯―講義概要

9月4日の社会権講座3回目の講義要旨です。
8000字ぐらいあります。あくまで要約です。

 最終回になる。今日は元気になるような問題提起をしたい。はじめに紹介したいのは、2日前の菅官房長官の総裁選出馬会見での発言だ。「国の基本は自助、共助、公助だ。まず自分でやってみて、地域や自治体が助け合う。その上で政府が責任を持って対応する。このような国のあり方を目指すには、国民から信頼をされる政府でなければならない」と言っている。私たちがたとえば災害対策などで「自助・共助」を言うのと、政府が「自助・共助」をまっさきに強調するのとでは、まったく意味合いがちがう。ようするに政府の責任はいちばん最後で、積極的にはなにもしません、という宣言だ。社会権の否定をこれからもしていくという姿勢があらわになったといえる。よくこんな発言を堂々といえるなと思うが、それに対しての異議が湧きおこる状況ではないところに、日本社会の深刻さがある。

 今日のポイントは、財源論とエンパワーメントの運動論だ。まず、財源論。竹内章郎・吉崎祥司著『社会権』(大月書店)では、「社会保障は、財源としての累進課税や法人課税、高額所得付加税・富裕税や相続税などの『再配分』によって、つまり所有権を制限することで実現し充実しうるものである」と繰り返し強調されている。教育無償化、失業補償、医療、年金、福祉、生活保護…。こうした社会権の実質化には、富の再配分が不可欠という認識である。
 しかし、日本ではまやかしの財源論が大手をふるっている。まず、財政危機論だ。高齢化社会の進展による社会保障の増大によって国の財政が圧迫されている、という議論だ。もうひとつのまやかしは、社会保障財源=消費税論だ。多くの人に浸透している。消費税は生活税ともいえる。消費なしに生活はできない。生活必需品にも課税する消費税は、社会保障財源として不適格である。強い逆進性もある。税金は消費税だけでなく、所得税や法人税もあるのに、財源の議論では消費税しか出てこない場合が多い。また、公務員を減らせ、議員を減らせ、という主張も目を逸らせる効果をもっているし、社会権を支える担い手を減らすことになってしまう。こうして、大企業に対する法人税、富裕層や不労所得・資産に対する課税への関心の弱さがより助長される(目に見えにくさもある)。それはそれを求める運動の弱さの反映でもある。
 富の「再配分」機能の強化は可能だ。まず確認したいのは、税負担の大原則は応能負担(応能原則)ということだ。負担する能力に応じての課税である。たくさん稼いだ企業や個人から、よりたくさん収めていただく。これが原則だ。また、生存権保障に対する国の責任を明記した25条から導き出されるのは、税金はまっさきに社会保障・社会福祉に使われることを目的としている、ということだ。
 税理士さんなどで作られている「不公平な税制をただす会」の試算では、1974年当時に適用されていた超過累進課税適用(最高税率93%)で13兆1752億円の新たな税収を見込める。消費税導入前の源泉分離課税(35%)を2018年度にあてはめると5兆5041億円。大企業優遇税制をなくし、法人税に所得税並みの超過累進課税適用で22兆2245億円の増収となるそうだ。以上のものを中心に法人税と所得税を総合累進課税にすると、41兆5075億円の財源が生まれる。2020年度予算の消費税税収21兆7190億円を差し引いても、約20兆円も増収となる。そう単純にはいかないかもしれないが、累進課税の強化によって再配分機能を取り戻せば、財源は十分にある、ということだ。
 世界的に、深刻な富の偏在と、そこへの課税が課題となっている。世界の上位2153人の資産が総人口の6割にあたる46億人分の資産を上回るという試算がある。国際的なNGO(非営利組織)の「オックスファム」が2020年1月20日、ダボス会議(世界経済フォーラムの年次総会)に合わせて発表した最新の報告書だ。ちなみに2153人の線引きは10億ドル(約1100億円)以上の資産保有者である。さらに報告書では、世界で最も裕福な1%の持つと富の合計は、その他の69億人が持つ富の合計の2倍以上となっていることや、世界で最も裕福な22人の男性の富の合計は、アフリカのすべての女性が持つ富よりも大きいことをあげている。世界で経済的な格差が広がっている一因として、富裕層や大企業向けの優遇税制が行われていることや、富裕層の多くがタックスヘブンなどを利用して、意図的な税金逃れを行っていることをあげ、富裕層は本来支払うべき税額のうち、3割にあたる額を逃れている、としている。

 こうした財源問題から、社会権の現実的根拠を考えてみたい。その根拠を考えることは、配分・再配分の理由を問うことでもある。まず、世界(日本をふくむ)は、すべての人に社会権を保障する物的基盤をすでに備えていることは確認できると思う。その富が偏っているがために、貧困が放置されているのだ。物的基盤があるのならば、存在と生活にもとづくニーズは、まず無条件に肯定されなければならない。そのニーズ保障が不十分であるのは、再配分が機能していないからだ。
 ここで、「大企業やお金持ちからそんなに高い割合で税金を徴収してもいいのか?」という疑問が出てくる。それを考えたい。結論としては、まったく問題ないし、妥当だ、ということだ。たとえば年間所得50億円の人に、1974年当時の最高税率93%をかけたら、残るのはいくらか?3億5千万円である。これで、何の問題が出てくるだろう。最高税率9割とか聞いて「え!」とびっくりするのは、庶民の感覚だ。
 さらに、大資本や富裕層の「富」は、ほんとうに「私的所有物」か? ということも考えてみたい。資本主義社会では、集団的協働にもとづいて巨大な富が築かれた。どんな資本家であっても、労働者集団の労働なしに、利益を生み出すことはできない。トヨタが年間1兆円とか2兆円とか利益を生み出しているが、それはトヨタの数多くの労働者と、トヨタが車をつくるために必要なさまざまな社会資源やサービスを生み出している社会的労働による成果だということだ。富を生み出す基盤としての労働は、すでに社会的・共同的なものとなっている。1人で生み出すことのできるものなど、ごく少量に限られている。しかしここでも物象化(人と人との関係がモノとモノとの関係に置き換わる現象)がそのことを覆い隠しているといえる。
 一方で、労働者階級を中心に、深刻な貧困や疾病、老後の生活難などが出現している。個人的努力ではいかんともしがたい「社会問題」となっている。大事なことは、富の増大と、貧困(リスク)の増大は、相互的なものである点だ。
 マルクスは『資本論』で「一方の極における富の蓄積は、同時に、その対極における、すなわち自分自身の生産物を資本として生産する階級の側における、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、野蛮化、および道徳的堕落の蓄積である」と述べている。富の蓄積と貧困の蓄積は同時進行に、相互的に生まれてくるものだ。富が増大する条件として貧困があるのだ。貧困(リスク)と「富」は同時に相互的に生起するものである。
 少し難解だが、また『社会権』から引用する。「社会権の実現は、〈富〉の存在を前提に『後から』〈富〉を〈リスク〉側に配分することではない。換言すれば〈リスクと富〉は、同時に相互的に生起する共同的集団的なものであり、〈リスク〉克服も当初からいっさいの留保なしに―私的所有に依拠する自己責任論などとは無関与に―、本来的に共同的・集団的な〈富〉―市場秩序化では〈リスク〉から分断されているが―に求められる。たとえば生活保護は原理的には、特定の貧困者を富裕者に依拠して救済する社会制度ではなく、社会における共同的集団的〈リスク〉を社会における共同的集団的〈富〉が補填する社会制度である。…財源論を理由とする生存権の否定や軽視は、生命の尊厳論や貧富の格差への道徳的忌避などの抽象的ヒューマニズムによって批判される以前に、貧困などの〈リスク〉と富裕などの〈富〉との相互性から財政難自体が原理的にありえないがゆえに非難されうるのである」
 富裕な階級の「富」というのは「社会財」の性格を色濃くもつということを押さえたい。ここに、一般に大きな所得や利益に対して高度の累進課税を課す、十分な理由がある。社会の資産として回収・還元されなければならない。

 この講座の、最後に、自己責任論を乗り越えるためにということで、エンパワーメントの運動論、というものを問題提起したい。社会権を獲得してきた歴史を1回目の講座で学んだが、労働運動を中心とした社会運動によって、すべての人の人権が保障される社会を目指してきたのが特徴だった。したがって、運動や組織を強くすることなしに、社会権は再生できない、というのが結論である。しかしそのためには、1人ひとりが自己責任論をのりこえ、主体として立ち上がってくる必要がある。
 まずは、徹底的な人権学習、とくに社会権のそもそもと近現代史についての学びが大事だ。日本国憲法の学びは、9条・平和主義に重点が置かれてきたため、人権学習は相対的に軽く扱われてきたように思う。人権学習は、人びとを勇気づけるものだ。1人ひとりの価値の無条件の肯定であり、人権の主体が自分であることを教えてくれる。学校教育での人権学習が不十分な現状がある以上、社会運動・労働運動のなかでの人権学習運動が重要となってくる。
 次に、社会権再生の鍵を握るのは、やはり「私たちの代表を議会へ」ということだ。社会権の綱を引きあう場所として、政治がある。憲法の目的である人権保障。それが政治の目的と考える人を多数議会に送り出すことだ。代表制民主主義においては、国家と個人のあいだに位置する中間団体が重要な役割を担っている。労働運動、さまざまな民主団体、市民運動組織、などだ。ヨーロッパの社会権が日本よりも強固なのは、強い産業別労働組合とその代表者としての社会民主主義政党の一定の強さがある。日本では企業の力、業界団体の影響力が大きく強い。それが自民党の強さの前提ともなっている。日本では特に、労働運動の再生が重要だと思う。社会運動を強く大きくするなかで、人びとがエンパワーメントされる。

 エンパワーメントについて改めて押さえたい。端的にいうと、自己効力感の獲得である。これを戦略的に位置づける、ということだ。
 「エンパワメントということばは、真に実践的な意味においては、自分の周りの環境に対して影響を及ぼす能力をもっていると感じ、その結果、自分の欲求を満たすことができるということを指す…。自己効力感」(ビリー・リー『実践 コミュニティーワーク~地域が変わる 社会が変わる』学文社)
 「人びとが感じる孤立感は、寂しさだけでなく困惑や無力感へとつながっていく。疎外されることで人はエンパワメントの反対の状況に陥る。わたしたちには確固とした社会関係が必要なのだ。ひとりだけでは周りにある巨大システムに影響を及ぼすことはできない。実際にわたしたちは、そうしたシステムが非常に抑圧的な方法で、わたしたちに向かっていると感じるだろう。力を感じるためには、他者とのつながりを経験しなければならない。コミュニティ感覚、つまり共通の経験や夢の発見、再構築は、無力感を減少させる。またそれは、社会変化を達成する戦いになくてはならない要素である」(同上)

 2つの運動から学びたいと思う。まず、障害者の自立生活運動だ。ウェキペディアでは、「自立生活運動とは、障害者が自立生活の権利を主張した社会運動のことである。自立生活運動が起きる以前の重度障害者は、…ボランティアによる介助を受けるなど慈善や温情に基づく援助によって生活活動を成り立たせていた。それは一方で救護施設での集団生活を余儀なくされたり、医療関係者や介助職員への依存を求められるなど、障害者が主体性を奪われ一方的な保護対象となることでもあった。自立生活運動はそういったパターナリズムに対するエンパワメントを軸とした活動である」と記述されている。パターナリズムとは、強者と弱者の関係性のなかで、強者が良かれと思って弱者に介入しすぎて、弱者の主体性を奪ってしまう、こういうことを指す。それはさまざまな関係性のなかで見いだされる。そこをひっくり返してきたのが、障害者運動だ。
 私も相方が障害者になってから、関連する本をたくさん読んだが、いちばん衝撃的だったのが、自身も身体障害者である中西正司氏の『自立生活運動史―社会変革の戦略と戦術』(現代書館)だ。社会運動に興味のある人には、ぜひとも読んでほしい1冊だ。中西氏は、こう指摘している。「障害者は障害をもっているだけで、障害当事者となるわけではない。『当事者主権』の中でも言われているように、障害者としてもたされているニーズは、本来社会が当然のこととして障害者に配慮して用意しておくべきものが用意されていないために、障害者がそのニーズをもたされている社会的問題であると気付いて、その社会を変革していこうと決意したときに初めて当事者となる」。どんなに劣悪で不当な環境に置かれていても、その環境を変革しようと自覚しなければ、当事者にはなれない、というするどい提起である。労働者も、労働者として職場の当事者となるには、主体性の獲得が不可欠だ。
 障害者の自立生活運動では、「心理的エンパワメント支援」と「体験的エンパワメント支援」を戦略的に位置づけ、主体性獲得の両輪として体系化・プログラム化している。以下は、中西氏の著作からの引用である。
 ・「本来はいろいろな可能性も潜在力もあったのが、環境に押しつぶされていったのです。その自分の能力と自信を取り戻そうというのが、ピア・カウンセリングの骨格理論です」「個人は組織でエンパワーされる」
 ・「われわれ自身が社会変革の主体者であって、自分たちこそが福祉サービスのニーズをもっていて、それを的確に表現でき、要求できる主体なんだと考える」
 ・「地域での自立生活の疑似体験がなされ、そこから、利用者自身が自分にはどのようなニーズがあるのか、どのような生活がしたいのか、そのためにはどのような社会資源が必要なのかを、体験の中から把握していくことができる」
 ・「自立生活プログラムは介助者との人間関係、地域住民との付き合い方、トラブルの解決方法等をグループでのプログラムで行う」「外出の方法を実際にフィールドトリップで行ったり、トラブル解決をロールプレイで学んだりする実践的内容」
 ・「運動ってやらない限り、ニーズが顕在化しない。顕在化しないと、そんなニーズはありませんということになってしまって、何も起こらない」
 ・「運動を持続していくために、みんなが過去の歴史を知っておいてほしい。先輩がどう苦労して、それを勝ち取ってきたか、その過程にはどんな苦労があって、どうそれをやり抜いたのか」
 この運動は、「自立」概念をひっくり返したと言われている。誰にも頼らず生きることという「経済的自立」ではなく、「自己選択、自己決定」こそを本当の自立ととらえ、そのために他者の助けをかりることは正当なことであると考えたのだ。
 自分は客体(変化を及ぼされる存在)ではなく主体(変化を担うもの)であるという感覚をカウンセリングや学習、またトレーニングなどを体系的に行うことで育てる。また運動を通して変化を「勝ち取る」ことによって自己効力感を強化するということを非常に自覚しながら運動を展開してきている。「障害者側の意識の中に、相手を超えるものを自分たちはもっているということを確信させるのは、やはり交渉がうまくいく、運動がうまくいっている結果だろうと思う。だから運動体は、いったん運動を仕掛けたら、負けるわけにはいかない。必ず勝っていかないと、次の運動につながらない」と中西氏は強調している。
 活動家づくりも非常に重視して疎かにしない。運動の醍醐味や戦略性をみごとに実践してきた障害者運動からは、多くのことを学べると思う。

 共通するが、黒人の公民権運動も示唆的な運動論をもっている。以下は『マーティン・ルーサー・キング~非暴力の闘士』(黒﨑真、岩波新書)73~75Pからの要約だ。
 ・ワークショップでは、非暴力の哲学と戦術に関する討論、質疑応答、抗議行動の際の服装、言葉遣い、遭遇するであろう暴力を想定したロールプレイが繰り返し行われる。半年以上に及ぶワークショップは、大きく3段階に分かれていた。最初の2段階は主として非暴力の哲学に対する理解にあてられ、第3段階は実践。
 ・第1段階は、参加者が自尊心を獲得し、不正には抵抗しなければならないことを確信する段階。参加者は、人種問題についてオープンに議論してよいという経験自体に驚く。そして、自分の、家族の、親戚の、友人の人種差別体験を話し、共有し、共感する。一人で悩む必要がなくなると、連帯意識が生まれ、恐怖心が取り除かれ、自分でも気づかなかった勇気と自尊心が芽生えてくる。
 ・第2段階は、不正を正し和解を勝ち取る方法として非暴力の有効性を認識する段階である。この第2段階までに主催者はあせらず何か月も費やす。その間、もっぱら聞き役に徹し、疑問や意見を自由に討論させ、助言を与える。参加者の中には、ワークショップを途中でやめる者もいるし、継続する者もいる。最後まで残った参加者は、キングが非暴力の六原理と呼ぶ非暴力哲学を身につけるにいたる。
 ・非暴力哲学に対する理解が深まると、実践の第3段階に入る。その焦点は「社会劇」、すなわち実際に遭遇する口汚い暴言や暴力を想定したロールプレイである。ランチカウンターへのシット・インの場面を想定し、参加者はカウンター席に座る。南部白人役の者は、参加者に顔の前で「このニガー」「猿」「神は白人だぞ」と罵り続ける。小突く。頭からケチャップやミルクをかける。顔に唾を吐きかける。椅子を揺らして引きずり倒す。参加者は、それでも冷静さを保ち、礼儀正しい言葉を使い、非暴力を貫けるよう訓練する。
 ・ロールプレイの後、参加者は、毎回自分がどう反応したか、どんな感情を持ったか、悪意を抱かなかったか、非暴力を貫くために何が必要かなど、あらゆる問題点を他の参加者と話し合う。これを繰り返し行い、完全に自己統制ができるまでにする。ワークショップに参加した学生たちは、このようにして非暴力の熟達者に成長していき、公民権運動を牽引していくのである。
 こうしたトレーニングを徹底してやる。実践に踏み出すには、誰もが躊躇したり、経験不足による怖れを抱く。だから実践的な学びも、座学と同じように重視する。キング牧師の『自由への大いなる歩み』(岩波新書)でも、集会のなかで実際にバス闘争を想定したロールプレイングをするなど、「実践のためのトレーニング」を運動のなかで位置づけていた。これは日本の社会運動がいま必要としていることではないだろう。
 こうした「客体から主体になるトレーニング」を最大多数に行なえる組織が労働組合である。職場は人権侵害のデパート(強弱関係がはっきりしているから)ともいえる。「おかしなこと」を認識し、交渉と集団的実践で変化を起こす。そのことで人権感覚をみがき、自己効力感を育てる。
 当事者をつくり、リーダーを育て、変革の戦略をもとう。歴史に学び、さまざまな運動に学び、理論で力を高め、連帯の力で社会を変えよう。社会権を再建することは、社会を変革することだ。自己責任を乗り越え、すべての人が人権を保障される社会をつくる、その主体者を増やしていこう。

『ブラックウェルに憧れて』を読む

土曜日(19日)は相方が調子イマイチで(痰が多く)、
午後の会議も休ませてもらい、1日オウチに。
といってもヘルパーさんいるのでひとり介護ではないですが。

そんなわけで一気に
『ブラックウェルに憧れて』(南杏子、光文社、2020年7月)
読み終えました。すてきな小説でした。さすが南さん。

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女子受験者を一律減点していた医学部の不正入試問題を入口に、
4人の女性医師たちの苦悩と選択を中心に描いていました。
「女」というだけで背負わされる偏見や差別的扱い。
医者の世界ではとくに根強い。

世界で初めて医師として認められた女性、
ブラックウェル(1821~1910)の言葉が章のはじめに示され、
灯火の言葉になっていました。

「もし社会が女性の自由な成長を認めないのなら、
社会のほうが変わるべきなのです」

そしてナイチンゲールも1820~1910だから、
ブラックウェルとぴたり重なりますね。興味深い。

反響のお手紙

金曜日(18日)、知り合いの方からお手紙が届く。
なにごと? と思って読みすすめていたら、
水曜日のRSKイブニングニュースをたまたま見ていたところ、
ぼくが映ってビックリしたと。

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相方が病気だということも初めて知って驚いたと。
暖かい励ましのお手紙に感動しました。

ちなみにぼくらはまだ番組見てません(笑)

94期労働学校、再度延期します。

問い合わせがありましたので、あらためて。
10月開校予定だった94期岡山労働学校は、再度延期いたします。
コロナ感染が収まりきっていない状況のなかで募集活動も思い切りできず、
93期受講の約半数が医療関係者という特徴もあり、
94期の成功条件がつくれないという判断です。

来年にむけて力を蓄えます。

いつものように乱読

最近読んだ本。

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『「知識基盤社会」論批判―学力・教育の未来像』
         (佐貫浩、花伝社、2020年3月)

いつものように、佐貫さんはラディカル。
「この本で展開した論理は…今日の経済学と教育学をつなぐ一つの挑戦」
と述べられている。グローバル資本によって歪められてきた「知の回路」。
すぐれた教育論の書。


『若い読者に贈る 美しい生物学講義ー感動する生命のはなし』
             (更科功、ダイヤモンド社、2019年)
全体的に平易に語られていて、面白い。新しい知見も。
こうした生物と世界についての基礎知識は、広く普及してほしい。
優生思想をお持ちのあのロックバンドのお方にも、読んでもらいたい。


『看取るあなたへー終末期医療の最前線で見えたこと』
              (河出書房新社、2017年)
終末期の現場で、人の死と向き合ってきた20人の筆者の「死生観集」。
細谷亮太、小澤竹俊、徳永進、高木慶子、柏木哲夫、山崎章郎、垣添忠生…。
今まで読んできた本の筆者もずらり。豪華で多彩で、深い1冊。


『ジェンダー平等の実現めざして』(浅倉むつ子・戒能民江・田村智子、
    政治革新をめざすオール早稲田の会編集、学習の友社、2020年8月)
シンポジウムの書籍化で、日本におけるジェンダー平等の課題と変革の
方途をわかりやすく学べる。こうした議論があらゆる場所で必要。


『事実はなぜ人の意見を変えられないのか~説得力と影響力の科学』
        (ターリ・シャーロット著・上原直子訳、白揚社、2019年)
「他人の考えを変えようとするときに犯しがちな誤りと、
それが成功した場合の要因を明白にすることが本書の目的」(はじめに)。
認知神経科学の興味深い知見。


『ワイルドサイドをほっつき歩け~ハマータウンのおっさんたち』
           (ブレイディみかこ、筑摩書房、2020年6月)
これも面白かった!ブレイディさんの視点と文才。
思えば、ブレイディさんがいなければ、
英国の地べたの人々のリアルを知る機会はなかっただろう。
こんな書き手が増えてほしい。


『迷子のままで』(天童荒太、新潮社、2020年5月)
小説を2編収録。児童虐待や震災・原発を背景にしつつ、
そのなかでもがき生きる人々を描く。天童さんらしい眼差し。


『美しい痕跡~手書きへの讃歌』
(フランチェスカ・ビアゼットン、萱野有美訳、みすず書房、2020年4月)
素敵な本に出会えた。
字の汚いワタクシだけれど、どんどん手書きをしたいと思えた。
「私たちはいま、速さという誘惑に身を任せ、質や唯一性、
物語といったものを犠牲にしている」

『官製ワーキングプアの女性たち』

『官製ワーキングプアの女性たち~あなたを支える人たちのリアル』
(竹信三恵子・戒能民江・瀬山紀子編、岩波ブックレット、2020年9月)
を読み終える。

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暗澹たる気持ちになる現場からの報告。
会計年度任用職員制度そのものが、働くひとの尊厳を奪うもの。
官製ワーキングプアをジェンダー視点から分析。

「現在ハローワークの非正規相談員は全体の4~8割に増加し、
窓口に座っている相談員のほとんどは非正規です」
「私たちには…労働法もほとんど適用外です」
「どうして日本では声を上げる人が退職しなければいけないのでしょうか」

「最後に、提案します。ストライキをしましょう。
非正規図書館員が仕事を止めると図書館はもう開きません。
働いている人たちは自分たちで自分たちの身を守るしかありません」

「窓口やケアなどの部署は、住民たちの悩みを受け止める
最前線でもあります。ところが、『ジェンダー秩序』や
『短期雇用』によってモノを言いにくい構造に置かれた
女性たちがそこに配置され、住民の苦情は意思決定部門まで
上がっていきません」

「女性非正規公務員が現場から声を上げられるよう
彼女たちを支える労働組合の強化が必要です」


読んで痛感したけど、
構造的に声を上げづらくさせられている人たちのエンパワーメントには、
まさに戦略性が必要だなと。
一筋縄ではいかないからこそ、緻密な運動論が大事になってくる。

コロナ禍のもとで-講義概要

(8/21の社会権講座2回目の講義要旨です。
7500字ぐらいあります。あくまで要約です)

 まず前回(1回目)のポイントを振りかえる。1点目、日本の最高法規である憲法には、社会権が明記されている。25条~28条+24条がそれにあたる。2点目、社会権はおもに20世紀に獲得されてきた現代的人権である。「国家による自由」とも言われ、人権を保障するために国家の積極的介入を求める。法整備・法規制と「富」の再配分が柱になる。3点目、自由権だけでは強者と弱者の関係が野放しにされ、人権侵害が起こる。社会権は強者の自由権の一部を規制・制限することで、すべての人の人権を保障する社会を切り拓く。

 今回は、コロナ禍のもとでの人権危機についてがテーマだが、コロナ以前から、社会権が毀損していた(国家が社会権を軽視・敵視)ということを、まず強調したい。
 まず25条、生存権(生活権)を考えてみよう。条文はこうだ。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。②国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」。「すべて国民」なので、ひとり残らず、ということだ。「最低限度の」というのは食えればいいということではない。その国の水準にみあった、ということ。たとえば地方であれば車は必需品で生存権の必須の部分に入るだろう。冷暖房や携帯電話も欠かせない。文化は生きることを支え励ましてくれる。つまり衣食住の保障とともに、人間らしい生活、ということだ。すべての国民は貧困ではあってはならないという宣言でもある。そして2項で生存権に対する国の責任を書いてある。国を、国務大臣、国会議員、公務員と読みかえてもいい。これらの人は、すべての国民の生存権の保障のために、社会福祉・社会保障・公衆衛生の向上と増進に努めなければならない。はっきりそう書いてある。

 ところが現実はどうだろうか。それ以下では最低限度の生活がかなわないという生活保護基準を下回る貧困世帯が全世帯の4分の1弱を占め、国民の6人に1人、2000万人超が貧困状態に置かれ、働く貧困層が勤労世帯の2割を超える。今や200万人にも達する生活保護の捕捉率がじつは10%~15%にとどまるという事態だ。貧困をふせぐ手立てを国がしなければならないのに、完全に底が抜けている。子どものいる世帯の4分の1が貧困のもとにあり、なかでも母子家庭などのひとり親世帯の貧困率が5割を超えてOECD諸国中のワースト1位。生存権の蹂躙といえる事態が、コロナ禍以前にも広がっていた。
 もともと低水準であった日本の社会保障は、2012年の社会保障改革推進法の成立以降、社会保障の解体攻撃が加速した。2013年以降、7年間の累計で1兆7千億円もの社会保障予算を削減。医療・介護費の抑制。病院の統廃合。公的責任の後退。人的体制+経営的ひっ迫。背景にケア労働への冷遇がある。年金制度にいたっては、最低生活保障機能を完全に失っていて、「老後の生活費は2000万円不足する」という報告書まで堂々とつくられた。国民年金は40年間保険料を払っても満額で64000円だ。これでどうやって生活するのか。
 さらには公衆衛生機能の縮小である。地域の感染症対策の拠点である保健所は1990年全国850か所から2019年472か所にほぼ半減。職員数も7000人減らされた。国立感染症研究所の予算や人員も抑制・削減が続いてきた。
 もう一度25条の条文を読んでほしい。「向上及び増進」と書いてある。しかし事態はまったく逆の方へ進んでいるのだ。

 次に26条、教育権(学習権)を考えてみよう。条文は「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。②すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする」である。
 ひとしく教育を受ける権利が、実際にどうなっているのか。2016年、日本の公財政教育支出の対GDP比は2.9%とOECD加35か国中、3年連続最下位だ。教育にお金をかけない国になっている。少人数学級は広がらず、教員数も抑えられてきた。子どもの(=親の)貧困の広がりのなかで、教育を受ける機会は、すでに教育機会においても、教育環境においてもはなはだしく不平等となっている。お金のあるなしで、学習権が奪われる国になっている。先進国のなかでも飛びぬけて高い高等教育の学費が、家庭や学生本人に深刻な学習権のはく奪をもたらしている。学生は生活費や学費をまかなうために、長時間のバイトを強いられている。学生ローンと化している名ばかり奨学金制度も深刻な問題を引き起こしている。無償であるはずの義務教育も、給食費だ教材費だ、なんやかんやと、さまざまな費用が発生している。ここでも、憲法の条文どおりでない事態が深刻な形で広がっている。

 27条の勤労権はどうなっているか。「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。②賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。③児童は、これを酷使してはならない」。これが条文だ。働くことは権利なんだ、という点をまずおさえてほしい。この条文によって、職業紹介、職業訓練、あるいは失業者への生活保障にたいする国の責任が発生する。これも現実はどうか。リストラなどによる常時200万人前後の「完全失業者」(失業給付は2割にとどまる)に加え、今や勤労階層の4割ともなる非正規雇用すなわち不安定・低処遇労働のまん延によって、多くの人びとにとって生活の維持すら困難な実態がある。他方、正規雇用労働者も長時間労働や病気でも休めない過酷な労働条件のもとで苦しんでいる。派遣労働解禁による広がり、フルタイムでもあたり前の生活ができない最低賃金の水準、進まない格差是正・均等待遇の法整備…。男女間賃金格差を放置。労働法の適用から外れる労働者の増加(名ばかり個人事業主)。権利としての労働権、まっとうな働き方、雇用保障は崩壊していると言えないか。

 最後に28条(労働基本権)をみてみよう。「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する」。とてもすっきりと規定されている。世界でもこれほどすっきりと労働基本権が書いてある憲法はあまりない。しかしいまや労働組合の組織率は戦後最低、17%を切るところまで落ち込んでいる。先進国では例外的な「ストライキのない国」にもなってしまった。切実な実態はあるのに、集団としてエンパワーメントできない状況がさらに広がっている。公務員労働者の争議権は戦後すぐにはく奪されたし、たたかう労働組合への攻撃と弾圧も繰り返されてきた。日本の財界は労働組合の力を分断するべく、1989年に労使協調路線にかたよりがちなナショナルセンター連合を結成するなど、28条を骨抜きにしてきたといえる。

 社会権実現の鍵である、富の「再配分」機能はどうなっているか。再配分機能は後退し、富の偏在と集中が加速している。たとえば大企業の内部留保は487兆円(2019年度)にまで年々増加している。大企業の役員報酬や株主配当は増えるも、従業員賃金は横ばいのままだ。働く貧困層が広がる一方で、100万ドル以上の金融資産保有者(富裕層)は281万人。これは米国、中国に次ぐ世界第3位となっている。金持ちも多い国なのだ。
 大企業への優遇税制もいたれりつくせりで、大企業の実質法人税負担率(10.9%)は中小企業(小規模18.6%、中規模21.0%)よりはるかに低い。研究開発減税、受取配当益金不算入制度、連結納税制度など、さまざまな優遇があり、もっぱら大企業だけが、こうした制度を利用している。所得税についていえば、驚くことに所得が1億円程度を超えると税負担率が下がっていくのが日本だ。富裕層の所得の多くは株式譲渡所得であり、これに対する税率が15%(住民税を含めても20%)と低く抑えられたままだから。欧米では30%前後が普通である。
 以上みてきたように、日本は「社会権などないような国」になってしまっている。なぜそうなったのか。1つは、社会権(憲法)を無視した政治がある。そうした政治家を多くの国民が選んでいる問題ともいえる。2つ目は、国家権力や企業の力に対抗する、社会的運動の脆弱さ。とくに中心となる労働運動の力が弱いというのが、今の状況をまねいている。3つ目は、日本の人権教育における社会権の欠損だ。主権者教育の機能不全が起こっている。「じゃあどうすればいいんだ!」という声が聞こえてきそうだが、これからの運動論については第3講義で考えたい。

 今日のポイントの2つめに移っていきたい。新自由主義、自己責任論の席巻が、社会の脆弱化をもたらしたということについて、もう少し深めてみたい。
 市場における自由競争にもっとも価値をおく経済理論・思想が、いわゆる「新自由主義」と言われるものであり、人権よりも経済的自由(市場経済の自由)に重きを置く政策として推進されてきた。
 この新自由主義がわかりづらいのは、この言葉自体は何も中身を語っていないし、「自由」という言葉を否定する人はほとんどいないためである。自由はいいものだ、というのが一般的な理解だろう。問題は、誰の、何のための自由なのか、という正体をつかむことである。新自由主義は、財産や能力などの「自分の所有物」の最大化をめざす活動・活力こそが人間の本質であり、その点での規制や制限がないこと、これこそが自由である、という考え方をとる。そうした所有物の最大化を可能にするものこそが「競争」であり、市場における自由競争こそに最も価値をおくのだ。
 前提としての強烈な個人主義がある。したがって、新自由主義的政策は社会権を否定する。①企業や市場競争における規制をできるだけ少なくしようとする。規制なき資本主義に。②利潤の最大化のみ追求。株主配当の上昇と賃金抑制。人権や環境は二の次。③富の再配分に反対。貧困や格差は必然で、活力の源泉として有益と考える。
 私なりに翻訳してみよう。「この国の最高法規は、市場における自由な競争。これこそが人間の本質、活力の源泉。生存権とか教育権とか、人間らしく働くルールとか、労働組合、そんなものは競争の障害物。社会保障は競争の敗者によるたかり。国に頼らない自立した個人になりなさい。自己責任。社会なんてものはない」。これが新自由主義の本音だ。
 とくに1980年代以降は、新自由主義的政策の逆流に多くの国が飲み込まれ、さまざまな規制緩和(競争の自由のため)が行われ、公共領域の縮小化とサービス産業化が進んだ。官から民へ、公務員の削減、緊縮財政。国家予算は人権にもとづくものではなく、強い経済のための集中と選択に置き換えられた。

 次に、新自由主義的政策の論理的帰結としての「自己責任論」について深めたい。責任の偽装による分断と無力化、これが自己責任論のもたらす結果である。失業や不安定雇用、貧困などを「個人の問題」にしてしまい、その責任を当の個人の努力や能力の不足によるものと強弁し、またそう思い込ませることで抗議を封じ込める。それは、新自由主義的支配の合理化・正当化のためのイデオロギー(思想形態)であることを本質としている。これは、意識的に注入・浸透されられてきた考え方である。
 自己責任論は、「社会的責任」と「個人的責任」を意図的に混同し、支配層にとっての不都合なことすべてを「自己責任」に解消することで、社会的・公共的責任を放棄し、あるいは隠蔽しようとするものだ。たとえば若者の就職難や非正規雇用の増加は、どこにその原因・背景があるのか。個人の問題でないことは明らか。ベクトルが外へ向かわないよう偽装し、自分(個人)へと向かわせる装置になっている。中西新太郎さんは『<生きにくさ>の根はどこにあるのか』(前夜セミナーbook)のなかで、こう述べている。「被害を被っている側に<自分に責任がある>と感じさせてしまう、つまり困難を内閉化させる抑圧様式は日本社会いたるところで蔓延しています。…一人ひとりが抱える困難をその人の内側へと閉じ込める強烈な力が働いている。私には異議を申し立てる権利があるとは言わせない。封殺する力です。責任を偽装すると言った性格ですが、これは、きわめて深い抑圧の姿です。…このようなレトリックや自分に責任があるという感じ方を導く有力な言説として<自己責任論>がある。…抑圧された者たちを徹底的に無力化していく思想的回路として、自己責任論をとらえる必要がある」
 自己責任論が流布しやすい理由の一つに、「一人前」の人間は、他人に頼らずに自立すべきもの・自ら助けるもの、という「自立・自助」の世間的常識がある。誰にも頼らずにちゃんと生活をたてていけないような人間は一人前ではない、といった「自立観」は、果たして妥当だろうか。人間という存在は本源的に関係的・共同的であり、相互依存的だ。少し考えたら、1人で何もかもつくり、生活できる人などいない。水道、電気、食料。スマホだって、多くの人の協働生産物である。多くの社会的労働によって1人ひとりの生活は成り立っている。ほんらい「自立」とは、関係や能力の共同性を前提としていて、関係のなかに自立がある。人間の本質的存在様式は、「社会的諸関係のアンサンブル」(マルクス)であり、「自立」ではないはずだ。
 やや難しいが、竹内章郎・吉崎祥司著『社会権~人権を実現するもの』(大月書店)では、こう指摘している。「日常的な意識では、『自立』は普通、できるだけ他人に『依存』せず、迷惑をかけないこと、人の手を煩わせないことなどと表象される。若者にとっての『自立』とは、第一義的に『誰にも頼らずに自分のことができること』である、とする近年のアンケート結果もある。しかし言うまでもなく、『誰にも頼らずに自分のことができること』は、さしあたりまず、『誰にも頼らずに生活ができること』を必ずしも意味しない。自明ながら、人はみな社会的分業、つまり相互依存や頼り合いをつうじてはじめて生活する(生活物資やサービスを得る)ことができるからであり、本源的に『誰にも頼らずに生活できる』ことなどありえない。にもかかわらず、『一人でやっていける』という表象が成立しているのは、商品生産と交換が普遍的なものとなった資本主義社会に固有の『物象化』によるものである。この全面的に物象化した社会関係のもとでは、人は貨幣を手にすることによって、他の具体的な人格と没交渉のままで生活できる、つまり物資・サービスを自由に購入できるという感覚が得られる。貨幣をもってさえいれば、他に依存することなく経済的に『自立』できる、という思い込み、倒錯が生じたのである」
 こうした「経済的自立」が可能なのは、実際には条件的・偶然的、一時的・部分的であり、経済動向・景気変動や労働能力、性別や年齢などなど、そして労働政策などによって左右され、個々人の努力や意欲には還元できない。「経済的自立」のための貨幣を稼ぎ出す「能力」も、「個人の所有物」というのは正しくなく、例外なく歴史的にも同時代的にも、他者・社会によって媒介されているというのが本質だ。1人だけでつくることのできる「能力」などない。

 最後に、コロナ禍のものでの人権の危機について考えたい。まず雇用である。深刻だ。経済の急激な落ち込み・縮小(4月~6月GDP年率27.8%減)により、あらゆる産業に影響が及んでいる。6月の総務省・労働力調査で、非正規労働者は前年比104万人減。非正規労働者の雇い止めが広がっていることを示す数字だ。まっさきに弱者にしわ寄せがいっている。休業者が多く、緊急事態宣言下で597万人。営業再開で減ったものの現在も236万人という数字になっている。この休業者が失業者になる可能性がある。雇用調整助成金は年末まで延長されたが、危機は深刻である。ちなみに休業者の6割は女性となっている。
 雇用がぐらつけば、生活もぐらつく。収入減に直結するからだ。もともと、現役世帯の約4分の1が、金融資産をまったく持っていないか、残高が少額で1~3か月程度の生活費しか賄えないという実態(ゆうちょ財団調査。2018年)があった。コロナショックの影響が続けば、家計の破たんにつながるケースが増えてくる。4月の生活保護申請件数は前年同月に比べて24.8%の増だ。
 医療・介護はどうか。病床ひっ迫。たらいまわし、院内感染など、「医療崩壊」の瀬戸際だったという報告が多く出されている。PCR検査の軽視と遅れが背景にある。もともと感染症病床、集中治療室の体制が脆弱だったことも露呈した。8割の医療機関が収入減(保団連アンケート)で経営危機だ。国からの抜本的支援がない。病院赤字が5月は平均5千万円。コロナ患者受入れ病院は平均1億円(公私病院連盟調査)。もともと診療報酬の抑制で赤字経営が多く、人員体制もギリギリのところにこの事態だ。コロナの影響で受診抑制広がっている(持病悪化も)。支えている労働者の賃金抑制にもつながっていく。こんなことを放置しては絶対にいけない。介護職場でも感染予防具不足も背景に「コロナ離職」も報告されている。医療と同じ構造的困難を抱えている。
 教育も深刻である。首相の独断専行による一律休校(2/27)で現場は大混乱した。保育も学童保育も甚大な影響を被った。学習権の危機、保護者の勤労権を脅かしたともいえる。異常な学習環境は続いている。多くの大学が入構を禁止し、対面授業を自粛している。「オンライン授業」の導入で、大学や教員、学生にさまざまな負担を強いている。実験や実習授業は実施が難しくなっている。「2割の学生が退学を検討」(学生団体「高等教育無償化プロジェクトFREE」調査)。立命館大学でも4人に1人が休学を考え、10人に1人が退学を検討(大学新聞調査)という調査がある。この危機のなかで、「少人数学級を」の声と運動が急速に広がっている。
 さいごに、保健所体制の脆弱さが浮かび上がった。PCR検査を受けられない事態が続出した。政府がこの30年、保健所と職員体制を削減してきたことがパンク状態の背景にある。

 思いつきの一斉休校にはじまり、地域の相違をみない緊急事態宣言、アベノマスク、GOTOトラベル…。国会開かず首相は雲隠れしていた。国民生活は目に入らず、無責任、積極的政策放棄の日本政府の対応は、世界的にもきわめてまれである。転換に向けた行動や運動を広げることが求められている。政治を変えなければならない。新自由主義と決別し、社会権再生をキーワードにしなければならない。第3講義では、財源論のそもそもと、これからの運動論を提起したい。

時間について考えた

今日(15日)午後は、
ソワニエ看護専門学校の今年度11回目の授業。めずらしく3限目。
「人間の時間について」をテーマに、時間について深めました。

人間にとって時間とは何か。時間を認識し生活できることの意味。
暦をつくり出した。時計の発達。時間意識を支配するものされるもの。
手持ち時間(寿命)は有限。死を認識できる。
人生は1度きり。だから、時間をどう使うか(どう生きるか)という問いが。
過去と現在と未来。現在の生き方によって、過去と未来の意味は変わる。

時間主権。自分の人生は自分のもの。だから人生の時間も自分のもの。
時間の使い方を自分で決められることの意味。
時間を奪われることも多いのが労働者。他人に使われる時間という側面。
労働時間の歴史的変遷。労働運動の意味。
休日・休暇、余暇の意味。余暇自体に価値がある。余暇は人権。
自分の時間をどうするかは自分で決める。時間を盗まれない。

人間にしかできない時間の使い方。
自分の人生の時間は自分のものだけど、他の人のためにも使える。
1人称の時間、2人称の時間、3人称の時間。時間の質が違う。
それぞれが重なり合い、相互作用する。
ライフステージや環境によって時間の使い方も変化。
大事なのは自分で決められる、ということ。たっぷりの余暇が重要。

というような流れでした。
学生さんの感想を少し紹介します。

■時間のことなんて考えてなかったけど、やっぱ時計って
すごい!まだある人生を有意義に使っていきたい!たのしみたい!

■現在、時間で区切られた世界で生きていて、それを窮屈
だと感じているけれど、時間という区切りのない世界を想像
したとき、今あるありがたみが感じられた。時間は過ぎて
いくなかで、楽しい事よりも辛く苦しい事のほうが多いけれど、
今という時間を大切に、意味のあるものにしたいと思った。
学校という区切られた時間から離れる、何にもない、
何も考えない時間を作ることも息抜きやストレスの軽減という
意味では必要不可欠だと思った。

■今日は自分の時間について学んだ。最近は勉強やらなきゃと
思いつつ、ネットで動画を見たりSNSをしたりしてあっというまに
1~2時間経ってしまいます。「人間はじぶんの時間をどうする
かはじぶんできめなくてはならない」。本当にそうだなーと
しみじみ思います。

■時間だけが、唯一、どの人間にも平等に与えられたものだと
思う。私はこの時間を最大限有意義に使いたいと思っているので、
時々、ムダな時間を使ってしまうと落ち込んでいたりした。
けど、先生の話を聞いて、今までムダだと思っていた時間も、
考え方によってムダじゃないのかもと思えました。

■休みは大切。バイト休みたいです。最高8連勤。

■人間の時間についての授業を受けて、看護師として働く時には、
就業時間と年間休日、有休消化率を重視して決めようと思いました。
家族や家庭、自分の生活のために仕事をしているのに、仕事に
多くの時間を割いていては本末転倒です。色々な大切なこと、
人のために使いたいです。時間泥棒から時間を守ろうというのを
聞いてハッとしました。ブラック企業は時間泥棒ですね。
たっぷりの余暇が、自分自身の心と体の健康を作っているんだなと
感じました。自分の時間を守れるように、知識と力をつけて
いきたいです。自分の時間を守れるのは自分だけ! No!More時間泥棒!

■自分1人だけの時間は大事だと思った。休む時間、趣味の時間、
寝る時間など。でも逆に他人にあてる時間も生きていく中で
とても大切だと思う。支え合い、助け合い、人生という限られた
時間の中で自分のためだけに時間を使うのではなくて他人との
関りの時間はとても有意義な時間になると思います。

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写真はソワニエの駐車場から北方面の空。

「毎回、目からウロコがおちる」

今日(14日)は、
10時から生協労組おかやまパート部会の新入組合員研修で
いつもの労働組合そもそも話。

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前の席の方がうなづきながら聞いてくれて、とてもやりやすかった。
ある方は「熱いお話をありがとうございました」と感想で。

専従の部会長はぼくのこの話を何十回も聴いているが
「毎回目からウロコがおちる」と。感謝。

労働組合の組織率、とくに非正規の組織率が
低いことにみなさん驚いていました。