『岡山民報』3月29日付に
寄稿したものです。
「過去を直視し、未来をつくろう」
2月上旬、ポーランドにあるアウシュビッツ
強制収容所跡を訪問した。第二次世界大戦中、
ナチスドイツによって、ユダヤ人、ポーランド
政治犯、ソ連軍捕虜など130万人がこの収容
所に連行され、およそ110万人が殺されたと
いう。現在は国立の博物館になっている収容所
は、当時の収容棟やガス室などが、そのまま
見学できる。虐殺されたユダヤ人の遺品の靴や
女性の髪が山積みされた部屋に入ったときの、
なんとも言えない気持ちは、今でもはっきりと
覚えている。
なぜこんな虐殺が可能だったのだろうか?
なぜ止められなかったのか? 戦後のドイツは、
さまざまな苦難を経て、「自国の負の歴史を直
視すること」に正面から立ち向かい、議論し、
それを「国民的記憶」として定着させてきた。
そのひとつの象徴が、1985年5月8日の、
ヴァイツゼッカー元西ドイツ大統領の「荒れ野の
四〇年」演説だ。「過去に目を閉ざすものは、
現在にも盲目となる」「非人間的行為を心に刻
もうとしない者は、またそうした危険に陥りやす
い」と警告した。そして、ドイツは過去の歴史と
向きあい続けるなかで、周辺諸国との信頼関係
を回復したのだ。
かたや、日本はどうだろうか。自民党・安倍政
権は、日本の侵略戦争の歴史に目をつむり、
イラク戦争への自衛隊派遣について検証もせず、
憲法を無視する形で「戦争のできる国」へと暴走
している。5月には、集団的自衛権行使容認の
閣議決定を具体化する「安保法制」(戦争立法)
をまとめて通常国会に提出し、一気に通す構えだ。
過去の歴史認識は、今の政治に直結している。
戦争の悲惨を心に刻もうとしない者が、現実的
でない空論を並べ、自衛隊を戦場に送り込もうと
している。過去を学ぶことなしに、よりよい現在と
未来はつくれない。戦後70年、いま私たちに、
何が問われているのだろうか。