今日の夕方、とある労働組合でミニ学習予定。
先方から出されたテーマは、
「会議で活発に意見がかわされるためには?」
という問題意識。
なかなかに難しい。
もちろん会議の性格にもよるけど。
一般的に言って、日本の会議で
意見が活発に交わされることは少ない。
なぜなら、学校教育で
「自分の意見」と「他人の意見」を
ぶつけあう訓練がされていないからだ。
ピアノの練習をしていない人間に、
ピアノをひけ、といっても無理な話なのだ。
訓練がその力を育てるのだから。
会議でさまざまな意見が出てくるためには、
一定期間の訓練が必要であるし、
「言いあえる人間関係」が必要である。
もちろん、会議主催者の問題もある。
労働組合で多くみられるような
「主催者の長い報告のあと、
若干の質疑応答があっておわり」的な会議は、
主催者の姿勢が問われるべきであろう。
でも、「難しいよね」として手をこまねいている
だけではダメなので、あれこれ考えてみる。
①自分の意見を言うためには、自分の意見が
尊重されるという対等な関係性が前提になる。
上下、主従関係をつくらない(感じさせない)配慮。
②主催者の会議のつくり方の工夫は、
おおいに改善が必要である。
時間配分、机の配置、雰囲気づくり、
討論時の人数、適切な「聞き役」の存在・・・
③憲法21条の実践としての
「労働組合という舞台」という認識をつくる。
あつまって、手を結んで、話しあって、
書きあって、伝えあう。
「~しあう」という関係づくり。民主主義の実践。
1人ひとりが自分の言葉をもち参画することが
大事だという認識。
めんどうくさいけど、まちがえない。
また、そもそも「労働組合の集まりに来ない」
という壁もあるだろう。
でも、それって
あたりまえだと思う。
学校教育のなかで、
主権者教育・労働者教育の
決定的欠如がある。
労働組合は、若い人たちのこれまでの
人生においてほとんど考えること、
登場することがなかったといえる。
自分たちの労働条件を「団体交渉」で
変えられるのだ、ということ自体を知らない。
おまけに、職場の多忙化、文化の個別化
などなど、
「労働組合の集まりに行かない・行けない」
理由はたくさんころがっている。
だからこそ、
「自分がいなくても大丈夫な集まり」で
あってはならない。
1人ひとりが参画し、高まりあう場としての場。
「あそこにいけばなんでも話しあえる仲間がいる」
という人間関係を
ねばりづよくつくるしかないのではないか。
労働組合は「集まりの場」をつくり、
多くの仲間がそこに集ってこそ、
多くのエネルギーが生み出され、
みんなの共通の思いや要求が練り上げられる。
イギリスのパブで労働組合が生まれたという
教訓は、なにより、
「多様な役割と魅力をもつ場であった」ということ
だろうと思う。
そんな場をひとつひとつていねいに
つくっていくしかないのだと思う。