『認識的不正義ハンドブック 理論から実践まで』
(佐藤邦政・神島裕子・榊原英輔・三木耶由他編著、勁草書房、2024年11月)
を読み終える。新年早々、またもや素晴らしい1冊に出会えた。
先日読んだ、大嶋栄子『傷はそこにある』のなかで、
初めて認識的不正義という概念を知る。直感的に「これは重要」と思い、
学べる本を探したら、2か月前に本書が出版されていた。
なんという絶妙なタイミング!!
さっそく読んでみると、直感どおり、様々な事例・分野に
応用できることが次々に思い浮かべられる内容だった。
労働者教育にも活かせると思いながら読む。
内容構成も練られたもので、研究者の力量と熱を感じた。
認識的不正義とは、ミランダ・フリッカー(イギリス出身の哲学者)が
『認識的不正義』(2007年、邦訳2023年)を出版して以降、
研究がすすんでいる概念である。
フリッカーが提唱する認識的不正義の中核的な内容は2つに整理される。
ひとつは、「証言的不正義」。これは、社会のなかで劣位に置かれた人々が、
その社会的アイデンティティに対する偏見のために、信用性を過少評価され、
聞き手にその発言を信じてもらえない(あるいはそもそも発言の機会を
与えられないとか、自ら発言を控えてしまうなど)という不正義。
たとえば、「女の言うことなんて」などのジェンダーバイアス、
「派遣の言うことなんて聞く必要はない」などの例があげられる。
ある属性・集団の成員であることによって不利益を被る不正義、
また発言者が人格ある主体であることを否定されることも意味する。
とりわけマイノリティー属性をもつ人が自らの抑圧体験について
「あ!これだったんだ!」と理解ができる概念だ。
もうひとつは「解釈的不正義」。これも、社会的に劣位に置かれた人々が、
これまでの認識活動に参加して概念を発展させる機会を奪われてきたために、
自らの経験を理解してそれを言語化するために必要な解釈資源が
乏しい状態に取り残されてしまうことを指す。
たとえば、「家事労働」という言葉もなく、フェミニズム理論もない時代。
女性が家のなかで無償で行い、家族の目の前で忙しく立ち働いている
にも関わらず、空気のように扱われ、社会的にも評価されず、
家事労働やケアを負担するがゆえの「葛藤」や「依存状態」に
ついて語る言語や構造把握がないゆえに、問題が可視化されない状態など。
セクシャル・ハラスメントも、その言葉が獲得されるまでは、
自分が受けた被害をうまく説明できず、職を辞すときも「自己都合」と
せざるをえない不利益、あるいはそもそも訴えることができない、
などの状態を指す。
本書は、フリッカーの提唱を高く評価しつつ、その批判的検討も
随所で行われていて、「これぞ研究」という内容であり、
かつ認識的不正義の概念を発展させられる余地がまだまだあることを
感じさせるものになっている。
また後半では、日本における認識的不正義の実例として、
「性暴力を取り巻く認識的不正義」「医療における認識的不正義」
「当事者研究との関りでの認識的不正義」「水俣病の認定をめぐる不正義」
「入管行政における認識的不正義」が、
それぞれの研究者によって論じられていて、理解をより深められる。
研究書に近い論文集なのでややとっつきにくさはある
(値段もお高め。3,000円+税)が、ぜひ多くの人に読んでもらいたい。
編著者のあとがきにも胸が熱くなった。編著者のひとり、
榊原英輔氏のコメントを最後に紹介したい。
「フリッカーが認識的不正義の概念を提唱してから一定の時がたち、
世界的には議論が成熟しつつあるが、本邦における具体的な
問題状況を分析する課題は、ほとんど未着手のままである。
本書を手に取った読者のなかから、身近に生じている認識的不正義に
意識を向け、この課題に取り組む人が出てくれることを切に願っている」
(257P)
(佐藤邦政・神島裕子・榊原英輔・三木耶由他編著、勁草書房、2024年11月)
を読み終える。新年早々、またもや素晴らしい1冊に出会えた。
先日読んだ、大嶋栄子『傷はそこにある』のなかで、
初めて認識的不正義という概念を知る。直感的に「これは重要」と思い、
学べる本を探したら、2か月前に本書が出版されていた。
なんという絶妙なタイミング!!
さっそく読んでみると、直感どおり、様々な事例・分野に
応用できることが次々に思い浮かべられる内容だった。
労働者教育にも活かせると思いながら読む。
内容構成も練られたもので、研究者の力量と熱を感じた。
認識的不正義とは、ミランダ・フリッカー(イギリス出身の哲学者)が
『認識的不正義』(2007年、邦訳2023年)を出版して以降、
研究がすすんでいる概念である。
フリッカーが提唱する認識的不正義の中核的な内容は2つに整理される。
ひとつは、「証言的不正義」。これは、社会のなかで劣位に置かれた人々が、
その社会的アイデンティティに対する偏見のために、信用性を過少評価され、
聞き手にその発言を信じてもらえない(あるいはそもそも発言の機会を
与えられないとか、自ら発言を控えてしまうなど)という不正義。
たとえば、「女の言うことなんて」などのジェンダーバイアス、
「派遣の言うことなんて聞く必要はない」などの例があげられる。
ある属性・集団の成員であることによって不利益を被る不正義、
また発言者が人格ある主体であることを否定されることも意味する。
とりわけマイノリティー属性をもつ人が自らの抑圧体験について
「あ!これだったんだ!」と理解ができる概念だ。
もうひとつは「解釈的不正義」。これも、社会的に劣位に置かれた人々が、
これまでの認識活動に参加して概念を発展させる機会を奪われてきたために、
自らの経験を理解してそれを言語化するために必要な解釈資源が
乏しい状態に取り残されてしまうことを指す。
たとえば、「家事労働」という言葉もなく、フェミニズム理論もない時代。
女性が家のなかで無償で行い、家族の目の前で忙しく立ち働いている
にも関わらず、空気のように扱われ、社会的にも評価されず、
家事労働やケアを負担するがゆえの「葛藤」や「依存状態」に
ついて語る言語や構造把握がないゆえに、問題が可視化されない状態など。
セクシャル・ハラスメントも、その言葉が獲得されるまでは、
自分が受けた被害をうまく説明できず、職を辞すときも「自己都合」と
せざるをえない不利益、あるいはそもそも訴えることができない、
などの状態を指す。
本書は、フリッカーの提唱を高く評価しつつ、その批判的検討も
随所で行われていて、「これぞ研究」という内容であり、
かつ認識的不正義の概念を発展させられる余地がまだまだあることを
感じさせるものになっている。
また後半では、日本における認識的不正義の実例として、
「性暴力を取り巻く認識的不正義」「医療における認識的不正義」
「当事者研究との関りでの認識的不正義」「水俣病の認定をめぐる不正義」
「入管行政における認識的不正義」が、
それぞれの研究者によって論じられていて、理解をより深められる。
研究書に近い論文集なのでややとっつきにくさはある
(値段もお高め。3,000円+税)が、ぜひ多くの人に読んでもらいたい。
編著者のあとがきにも胸が熱くなった。編著者のひとり、
榊原英輔氏のコメントを最後に紹介したい。
「フリッカーが認識的不正義の概念を提唱してから一定の時がたち、
世界的には議論が成熟しつつあるが、本邦における具体的な
問題状況を分析する課題は、ほとんど未着手のままである。
本書を手に取った読者のなかから、身近に生じている認識的不正義に
意識を向け、この課題に取り組む人が出てくれることを切に願っている」
(257P)