長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

来月の沖縄フィールドワーク事前学習

きのう(20日)の午後は、

岡山民医連の第1回平和ゼミナールの

6回目。

 

来月、2泊3日で沖縄フィールドワークをするので、

その事前学習と、当日のあれこれの確認でした。

 

ぼくは30分の時間で

「沖縄戦と沖縄の戦後史」のミニ講義。

沖縄の現代史の基本知識を

知ってもらうためのものでした。

 

ミニ講義のあとは、30分バージョンの

「標的の村」鑑賞。

あー、やっぱこれ、涙でるわ。

高江のたたかい、ほんと支えないといけない。

 

感想交流も、しっかりできて、

来月のフィールドワークへ向けて、

よい準備ができたと思います。

 

 

以下は、私のミニ講義の概要です。

 

はじめに:どういう立場で沖縄の現実を見て、考えるのか

 

  ◇「暮らし」「日常」のなかに侵食してくる、沖縄の「基地」「安保条約」の現実

   *基本的人権は、なにものによっても奪えないはずなのに

   *国の安全保障のためなら、少々の犠牲は「しょうがない」という犠牲の

論理を日本国憲法はとらない。

  ◇沖縄の人びとの負わされてきた歴史や苦しみや痛みの上に、さらに…

   *私は、国家によって強いられた痛苦の経験を背負い、分断させられて

きた沖縄の人びとの立場に断固として立って、この問題を考え、行動

していきたい。

   *ともすれば「ひどい実態」「かわいそう」という認識だけに留まってしまい

がち。そこからさらに1歩、行動へつなげるには、どうすればいいのか。

 

一。沖縄戦が問うもの-けっして過去の出来事ではない

 1。沖縄戦の基本的性格①ー天皇制政府にとって沖縄は「捨て石」

  ◇本土での決戦作戦計画「帝国陸海軍作戦計画大綱」(45年1月21日決定)

   *沖縄や硫黄島を含む小笠原諸島は、本土決戦の準備が整うまで「米軍に

出血を強要する持久作戦」と位置づけられた。これが、沖縄戦の悲劇の

全体を規定した。

  ◇「もう一度戦果を挙げてからでないとー」天皇が拒んだ終戦(2月14日の時点)

 

 2。沖縄戦の基本的性格②-国内では唯一の軍民混在の壮絶な地上戦

  ◇硫黄島でも地上戦は行われたが、住民はあらかじめ強制疎開させられていた

  ◇沖縄戦における戦没者数(援護資料。朝鮮人は不明)―約20万のうち半数が住民

   *県外出身日本兵 65,908人、沖縄県出身 軍人・軍属 28,228人

   *一般住民(戦闘参加者ふくむ。推定) 約94,000人

    →日本側戦没者合計 188,136人(うち沖縄出身者122,228人)

   *米軍 12,520人

 

 3。沖縄戦への道(1944年3月~1945年2月)

  ◇沖縄にやってきた日本軍-軍隊のいなかった島に

  ◇第32軍の創設-航空基地建設とその防衛が主な任務

   *1944年3月に第32軍創設-南西諸島の防衛を担当

   *沖縄に本格的な飛行場建設はじまる

   *次第に本格的な実戦部隊も配備されてくる

-中国戦線を経験した精鋭部隊が主力に

-が、沖縄戦目前に、最精鋭部隊(第九師団)を台湾へ抜かれてしまう

   *44年10月上旬までには、主な飛行場のほぼ基本的な施設は完成

    →が、これらの飛行場は結局日本軍に使われずに、米軍に占領されることになる

 

 4。サイパン島の陥落-沖縄戦の悲劇の予兆

  ◇44年7月、サイパン島(マリアナ諸島)が陥落

  ◇サイパンでの悲劇は、沖縄戦の予兆

   *日本軍の「玉砕」。約2万人の日本人がいたが、約半数が犠牲。

*住民虐殺、住民スパイ視、投降阻止、自決強要、壕追い出し、食料の強奪・・・

沖縄戦でおこったことのほとんどすべてがおきていた。「集団自決」も。

   *「集団自決」は、他の地域でも起きていた

    ・サイパンだけでなく、テニアン、フィリピン、旧満州でも。日本軍全体の体質。

 

 5。根こそぎの戦場動員

  ◇軍は住民の北部疎開要求-実態は役に立たないものを放り出す棄民政策

*避難者は約8万人と推定(うち、餓えやマラリアで約2万人が死亡と推定)

  ◇本土からの増援部隊の可能性もなくなり、すべて現地でまかなう必要に

   *沖縄住民(主に17歳~45歳の男子)にたいして大規模な防衛召集

   *防衛隊は沖縄戦の戦闘協力の主役―武器もまともに使えない「にわか兵」

    ・約2万5000名が召集され、うち1万3000名が戦死。

  ◇学徒2千数百人を動員(現在の中学生~高校生にあたる年齢)

   *男子学徒は鉄血勤皇隊や通信兵(弾薬運びや実際の戦闘にも)、女子学徒は

看護要員。動員された者の約半数あるいはそれ以上が命を失う。

 

 6。沖縄戦の実相①ー圧倒的な兵力の差

◇勝敗はだれの目にも明らかだった。

*アメリカ軍は艦艇数1500、兵員54万8000人(うち上陸部隊18万人)の

沖縄攻略部隊を組織し沖縄に向かった。3月26日、慶良間諸島の座間

味島など数島に上陸。4月1日には守備陣の薄い本島中西部で、飛行

場のある読谷村と嘉手納町を狙って上陸し、米軍はその日のうちに北・中

飛行場を確保した。

 

 7。沖縄戦の実相②-慶良間諸島への米軍上陸

◇最初の「集団自決」―軍の強制が背景に

   *手榴弾を配る、投降を許さない、住民を一か所に集める

   *日本軍がいなかった島では米軍が上陸してきても大勢の住民が投降して

助かっている。

 

 8。沖縄戦の実相③ー沖縄本島への米軍上陸、本島は南北に分断

  ◇無血上陸-日本軍はすでに撤退、取り残された村民

  ◇明暗分けた2つのガマ―チビチリガマとシムクガマ

 

 9。沖縄戦の実相④ー南部撤退

  ◇日本軍の総攻撃の失敗―多くの住民が巻き添え。沖縄戦は事実上敗北。

  ◇32軍、首里司令部を放棄

*南部へ撤退、持久戦方針へ。10万人以上の住民が戦闘に巻き込まれることに。

  ◇地獄の戦場。軍民混在のなかの悲劇。

   *日本軍による住民虐殺、壕追い出し。「集団自決」。米軍による無差別攻撃。

   *魂魄の塔には、4万体もの身元のわからない遺骨が

   *6月23日に32軍牛島司令官の自決によって、組織的戦闘は事実上終了

    ・沖縄県ではこの日を「慰霊の日」として、独自の休日としている

 

 

二。沖縄戦以後-米軍による占領と基地化、そして安保条約

 1。本土爆撃の出撃拠点として基地を整理・拡張

 

 2。沖縄への基地の集中ーすすんだのは戦後

◇本土の基地を減らして沖縄へ

*85%―15%(1955年) 陸軍は韓国へ。海兵隊は沖縄へ。

*55%-45%(1960年) 26%-74%(現在)

   *海兵隊中心の沖縄、という現在の姿になったのは1956年~1957年に

かけて。沖縄はいまだ米軍の占領下。基地問題を沖縄に集中させ、もの

言えぬところに押し込める。日米支配層の思惑も。安保条約10条問題。

一方的に廃棄できる。そういう政府ができないように。

 

  ◇銃剣とブルドーザーによる土地接収(基地拡大)

*サンフランシスコ講和条約(1952年)で沖縄は切りすてられる。米軍占領が

27年間も続く。沖縄支配の合法的根拠を得たとする米軍は、徹底した

軍事優先政策と反共政策をふりかざし、軍用地の強制接収や政治的弾圧を

強行していく。

   *住民の抵抗を武力で排除しての基地拡張建設-土地の強制接収

 

 ◇島ぐるみ闘争-56年6月「プライス勧告」

   *プライス委員会報告書は、沖縄基地が、①制約なき核兵器基地として、

②アジア各地の地域的紛争に対処する米極東戦略の拠点として、

③日本やフィリピンの親米政権が倒れた場合のよりどころとしてきわめ

て重要であることを強調し、軍用地政策を含む従来の米軍の占領統治

を基本的に正しいものとした。

   *島ぐるみのたたかい

    ・プライス勧告の全文が沖縄に届いた6月20日、全沖縄64市町村の

うち56の市町村でいっせいに市町村住民大会が開かれる。これらの

大会には、16万から40万の民衆(全人口の20%~50%)が参加した

と言われている。

    ・6月25日には全県規模の住民大会が那覇とゴザ(現沖縄市)の二つ

の市で開催され、それぞれ10万と5万の民衆が参加した。

 

 3。苦難のたたかい-祖国復帰運動

  ◇ベトナム戦争への「加担者」に―60年代~70年代初頭

  ◇「平和憲法のもとへ」-復帰の現実は「安保条約のもとへ」だった

   *米軍基地の永続化と引きかえの「祖国復帰」-1972年5月15日

   *沖縄の現実は、「安保条約」への縛りつけ、集中的な基地負担だった。

    ・朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争・・・

    ・これらのアメリカの戦争の出撃基地となった沖縄。被害者であると同時に、

加害者にもさせられてきた。

 

 4。安保条約とはそもそも

  ◇ひと言でいうと、軍事同盟なんですが

   *「共通の危険に対処するように行動」(第5条)、「アメリカ合衆国は、その

陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを

許される」(6条)

   *日米安保は、従属的・植民地型軍事同盟

    ・1945年8月15日~1952年4月28日まで、日本は占領されていた。

    ・占領下のなか、アメリカは、当初日本を「民主化」しようと政策をすすめ

たが(その象徴が日本国憲法)、やがて「アジアの反共の砦」「目下の

同盟者」として「活用」する方針に変更。保守政治家・侵略戦争の指導者

を次々と釈放。

    ・1952年4月28日の「サンフランシスコ講和条約」をもって日本は「主権

を回復(独立)」するが、沖縄は切りすてられる形での「独立」となる。

そして、このサンフランシスコ講和条約と同時に結ばれたのが、日米安保

条約。

    ・従属的な同盟という表れのもっとも顕著な問題は、日米地位協定による、

日本側の裁判権の放棄。重大な犯罪(殺人、ひき逃げ、強盗、性犯罪

など)でも、米軍が「公務中だった」といえば、日本での裁判ができない

ということになっている。しかも、「公務外」の事件・事故であっても、

「日本は裁判権をできるかぎり放棄します」という密約まで結んでいる。

    ・空母打撃群の母港があるのは、米本土を除けば、

日本だけ(神奈川県横須賀)

    ・「殴り込み部隊」と言われる海兵隊が恒常的に駐留するのも、世界で

日本だけ。普天間基地の海兵隊は、「年間の半分以上いない」(伊波

前宜野湾市長)のが現実。イラク戦争やアフガン戦争に投入されているから。

 

 5。犠牲なき安全保障をー憲法どおりの日本にするために

  ◇沖縄県民の犠牲のうえに、日本の安全???

   *沖縄も、日本ではないのか? そもそも、こうした沖縄の「痛み」を、

私たちは放置しておいてよいのだろうか?

  ◇東アジアでの友好関係の構築の課題

   *とくに中国と北朝鮮との関係

   *日米軍事同盟のみに頼っている日本。

緊張関係をつくりだしている元でもある。

 

  ◇新たな基地押しつけとのたたかい-辺野古、東村高江

   *これだけの犠牲を強いてきた沖縄に、私たちがどう連帯し、関心を持ち

続けていくのか。それがいま、問われているのではないか。

   *憲法を守ることができても、安保があるかぎり、沖縄の現実は変わらない。

    ・憲法を守る運動と、憲法どおりの日本をつくる運動

 

 

以上。