長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

『対象喪失 悲しむということ』(中公新書)

『対象喪失 悲しむということ』(小此木啓吾、中公新書、1979年)
を読み終える。

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ソワニエ読書日記の4冊目。
著者は、精神科医・精神医学者。

対象とは、愛情や依存の対象。
それを失ったときの精神構造と悲哀の分析。
2015年で33刷という、超ロングセラーです。
たしかに古くない、新鮮な深みがありました。

以下、自分用のメモです。

「生老病死、つまり死、病気、退職、受験浪人から
失恋、親離れ、子離れ、老いにいたるまで、あらゆ
る人生の局面で、対象喪失は、大規模に起こってい
る」(1P)

「近親者を失ったその家族、とくにその夫・妻が、
悲嘆のさ中で、身体の病気にかかり、死んでゆく比
率が異常に高い」(4P)

「この心身の異和・変調は、ガッカリして寝こんで
しまう、もはやなにもやる気がしない、あとを追っ
て自分も死んでしまいたい、この世のことに、希望
も興味も、関心もなくなってしまった・・・などの、
失意、悲嘆、うつ、絶望の心理と表裏をなしている。
そしてこのような心理状態が、さまざまな病気に対
する生体の生理的抵抗力を弱める」(7P)

「中心的依存対象の喪失は、彼らにとって、生き甲
斐と心の拠り所の喪失を意味する。一見すると、そ
れ以外の表面的な生活条件はすこしも変わらない。
これまでの生活がつづき、その精神状態には何の異
常も認められないようにみえるが、心の中は失意と
絶望に支配されてしまう」(10P)

「移民や亡命で失うのは、対象喪失というよりも、
もっと根源的な根こぎ体験であるという。異郷にど
んなに新しい根をおろしても、母国の根を失った悲
しみや苦痛は消えることがない」(20P)

「そもそもここで言う『対象喪失』とは、次のよう
な体験を言う。
 第1に、すでに述べたような近親者の死や失恋を
はじめとする、愛情・依存の対象の死や別離である。
またそれは子どもの成長にともなう青春期の親離れ
に対する、父母の子どもを失う体験と、子どもの側
の心の中での親離れによって、父母を失う体験をも
含んでいる。
 第2に、住みなれた環境や地位、役割、故郷など
からの別れである。引越し、昇進、転勤、海外移住、
帰国、婚約、進学、転校・・・などは、いずれもこのよ
うな環境の変化である。そしてそれらを対象喪失と
呼ぶのは、次のような意味においてである。①親し
い一体感をもった人物の喪失(略)、②自己を一体
化させていた環境の喪失(略)、③環境に適応する
ための役割や様式の喪失(略)。
 第3に、自分の誇りや理想、所有物の意味をもつ
ような対象の喪失がある。①アイデンティティーの
喪失(略)、②自己の所有物の喪失(略)、③身体
的自己の喪失(略)」(28~32P)

「対象喪失という場合、一般に自分のほうから求め
ないのに、それを強いられる経験を意味する語感が
強い。しかし自分から対象をすて去ったり破壊した
にもかかわらず、のちになってその喪失をくやみ苦
しむ喪失心理がある」(42P)

「フロイトは、相手を失ってしまったという事実を、
知的に認識することと、失った相手を心からあきら
め、情緒的にも断念できるようになることは、決し
て同じではないという。もはや相手がいなくなって
しまった、いくら会おうと思っても会うことができ
ない。このことは、頭ではよくわかっている。しか
し、どうしても会いたいという思慕(しぼ)の情は、
決してわかっただけで消えるものではない。そして
またその対象が自分にとって大切なものであればあ
るほど、その対象に依存していれば依存しているほ
ど、われわれはそれを失った苦痛に耐えることがで
きない。それはなにかのまちがいだ、まだどこかに
生きているのではないか、もう一度探し出せるので
はないか、なんとかして取り戻したい、という気持
ちにかられて、さまざまな空しい努力を企てる。そ
れでも無駄だとわかると、どうして行ってしまった
のかと、自分を見棄てた対象をうらんだり、責めた
りする気持ちにもなる。またその運命を呪い、誰か
のせいにして、運命を変えようとすることもある。
なんとかして対象を失うまいとするこれからのさま
ざまな情緒体験の中で、最終的には、対象を取り戻
そうとする試みが不毛であり、自分にはとてもそれ
は不可能だと心からわかるとき、激しい絶望が襲い、
すべての投げ出した悲嘆の状態に陥る。
 実はわれわれは、死別であれ、生き別れであれ、
愛情・依存の対象を失うとき、すくなくとも1年ぐ
らいのあいだは、これらの情緒体験を、心の中でさ
まざまな形でくり返す。この悲哀のプロセスを、心
の中で完成させることなしに、その途上で悲しみを
忘れようとしたり、失った対象について、かたよっ
たイメージをつくり上げたりして、その苦痛から逃
避してしまうこともある。(略)内面的な悲哀に耐
え、失った対象と自分とのかかわりを整理するとい
う課題は、苦痛ではあるが、どうしても達成せねば
ならぬ心の営みである」(49~50P)

「しかしながら現代社会では、生き別れの場合も死
別の場合も、たとえどんなに激しい衝撃を受け、悲
嘆の極に置かれていても、とり乱したり、おろおろ
しっぱなしで、社会人としての役割をはたすことが
できなければ、その社会的人格をまっとうすること
はできない。そこで対象を失った衝撃と不安から、
すみやかに立ち直り、失った対象を悼む気持はしば
らくおいて、とにかく社会生活や、いわゆる世間へ
の適応をはからねばならない。対象を失った人物が
直面するのは、このきわめて実際的な課題である。
そのために対象を失ってしまった悲しみや怒りを、
一時的に心の奥に抑えこむ。そして無感覚、無感動
になり、すべての感情が麻痺し、機械的に実務をは
たしていく。もちろんふと気がゆるみ、あるいは心
を許せる身内や親友だけになると、種々の感情があ
ふれ、亡き人への思慕の情がつのる。しかし当面の
実務的な仕事やおくやみにみえる近隣や親族の応対
は、対象とのこのかかわりを、すぐさま中断させて
しまう。こうした制度化された儀式や人びととの接
触は、対象を失った当事者に衝撃や不安から立ち直
る助けを与えるとともに、悲哀の心理を自分の内面
でひとり辿ることのできるほどに、心身の状態が回
復するための猶予期間を設定してくれるのである。
そのために悲哀の心理は、むしろこの緊急事態が終
り、静かな生活にもどってから、その人の本格的な
課題になることが多い」(57P)

「悲哀の心理の本質は、すでにその対象と再会する
ことができない現実が成立してしまっているのに、
対象に対する思慕の情が、依然としてつづくことに
ある。いやむしろその対象とのかかわりが現実につ
づいているあいだは、愛情も依存も強く意識されて
いない場合がある。ところがひとたび対象とのかか
わりを失うと、これらの欲求は満たされぬものとし
て、鮮明な形で自覚される」(59P)

「生から死に至るまで人生は対象喪失のくり返しで
ある。われわれ人間にとって、どのようにして悲哀
の仕事を達成し、対象喪失を受容するかは、もっと
も究極的な精神的課題である」(192P)

「現代医学教育が直面している重要な課題は、死の
せまった患者とその家族と、悲哀の仕事をともにす
ることができるような医師や看護婦たちを、どのよ
うにしてつくりあげるかである。(略)・・・患者や
家族は、自分たちの身近にいる医療スタッフに精神
面でも頼ろうとするが、医師や看護婦は、身体面で
のかかわりに専念し、能率的な作業によって患者た
ちを処理することに追いまくられている。しかもこ
の多忙さや身体面重視の深層心理には、悲哀の仕事
をともにすることへの困惑や回避が潜んでいる」(194P)


・・・ちなみに、喪失(死別)体験による悲嘆や、そ
のケアに関する本を読むのは、これで6冊目です(以下に紹介)。
心の痛みは目にみえません。だからこそ、こうした
悲嘆についての知識や想像力をしっかり持ちたいと思います。

■『デス・スタディー死別の悲しみとともに生きるとき』
     (若林一美、日本看護協会出版会、1989年)
■『死別の悲しみを超えて』(若林一美、岩波現代文庫、2000年)
■『妻を看取る日-国立がんセンター名誉総長の喪失と再生の記録』
                 (垣添忠生、新潮社、2009年)
■『喪失体験と悲嘆―阪神大震災で子どもと死別した34人の母親の言葉』
                (高木慶子、医学書院、2007年)
■『悲嘆とグリーフケア』(広瀬寛子、医学書院、2011年)