長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

相手に伝わる言葉を考え抜く

『月刊 全労連』4月号は、全労連30周年特集だった。

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そのなかで、記念集会での3人の方による
ディスカッションの概要が掲載されていた。
小森陽一さん(東京大学名誉教授)、
上西充子さん(法政大学教授)、
野村幸裕さん(全労連事務局長)の3人である。

労働組合運動の言葉について中心的に議論がされていて、
興味深く読んだ。
なかでも、小森陽一さんの以下の指摘は、重要である。

「労働組合運動のなかで日常的に使用している日本語
というのは、きわめて特殊だということをまずご自覚
いただきたい。ほとんど外国語の世界にいるようだと
いう印象をもったと、労働組合の集会に出た人の感想
をたくさん聞いています。たとえば組合の言葉を方言
で言い直してみると、この漢字二字熟語がもっている
概念や人間社会における日常的な在り方ということが
見えてくると思います。また、小学校一年生にわかっ
てもらうにはどう言ったらいいだろうかと工夫をちょ
っとするだけで、会議での意思統一の在り方や何を議
論したらいいのかが変わってくると思います。もう1
度、組合で使用している1つひとつのキーワードに、
なぜという問いかけを一斉にかけてみると言葉はとて
も豊かになり、社会的な流通性を確保することができ
ると思います」

小学生にもわかってもらうには、という意識、
私も心にいつも刻んでいる。講義で概念やものごとを
説明するときに、小中学生ぐらいをイメージして言葉を考える。
たとえば、憲法とか、人権とか、社会保障とか、
尊厳とか、労働者とか。
それを小学生にもわかる言葉に変換する。
でもそれは、水準を落とすとか、そういうことではなく、
大吟醸酒がお米を削って削って(精米)つくられるように、
具体的なものを捨象していって、本質中の本質をえぐり出す作業。
だから、スッキリした味わいになるのだ(笑)。

つまり、相手のことをイメージすることが大事だということ。
たとえば、
メーデー集会に参加するときにいつも感じるのだが、
メーデーは活動家だけの集まりでもなければ、
活動経験の長い人ばかりが参加するわけでもない。
働き始めたばかりで、労働組合というものを
自分の言葉でとらえられない1年目職員も、参加している。
でも、あいさつなどで登壇する人の発する言葉は、
1年目職員にわかるものではまったくないと思う。
たぶんチンプンカンプン。
自分のことだと思ってくれるような工夫が足りないと感じる。

この内容、言葉で、相手に伝わるだろうか、を
つねに想像する習慣を、私たちは身につけたい。
どのような人が自分の話を聴くだろうか、
文章を読むだろうか。
「あの人が聴いたら」「あの人に読んでもらったら」
というイメージを持ちながら話すし、書く。

神戸女学院大学名誉教授の内田樹さんは、
『街場の文体論』(文春文庫)のなかで、こう述べられている。

「書くとき、目の前に読者がいないときも、僕たちは
仮想の読者を想定して書いています。どんな場合でも、
僕たちは想像上の読者に向けて語りかけている。
(中略)・・・自分のなかにいろいろなタイプの読者像を
持っていること。それが『読みやすい文章』を書くと
いうときの1つの条件じゃないかと思うんです。だって、
少女が読者だと思うと、『少女に通じる言葉づかい』を
するわけでしょう。お爺さんが相手だったら、『ある年
齢以上の人なら当然これくらいのことは知っているわな』
という歴史的事実を論じたり、人名を挙げたり、あまり
使わない語彙を動員したりすることができる。僕はこの
読者像の多様性ということが、文章を書く上でものすごく
大切なことじゃないかと思うんです」

先日の核ZERO講座でも、
反核運動の歴史にふれる機会があり、
「冷戦体制」という言葉をつかわざるをえない場面があった。
しかし、冷戦終結から30年である。
ソ連という国も、もうない。
若い世代は感覚として冷戦がわからない。
だからきちんと説明する。

もちろん、若い世代が参加していない場であれば、
そうした説明を省くことができるが、いるのであれば、省けない。
これは逆もいえて、高齢者が多い学習会では、
最近の言葉、たとえばSNSとか、ワンオペ、
なんていう言葉は、若い人は知っていても、
年配の人だと知らない人もいる。
だから、つねに自分の言葉を受け取る人のことを
想像することを大事にする。言葉はキャッチボールなのだから、
まったく相手のミットに届かない場所に投げては、
伝えあいを生み出せないのである。

私たちは言葉で人と人をつなぎ、運動を構築するしかない。
だから、もっと言葉にこだわり、言葉に執着したい、と思う。