きのう読んだ憲法テキストに、
27条・28条は経済市場において労働者を勇気づけるためにある、
と書いてあり(いま本が手元になく不正確かも)、その通りだと感じた。
私的関係である労働契約にあえて、積極的に介入して、
最低限のバリケードを設定し労働者の人権を守ること、
そして労働者が労働条件を対等に使用者と交渉できるように
「その手段」を整えなさいと、憲法は国家に命令している。
憲法は労働者だけに、肩入れしているのである。
憲法は中立ではないのである。
労働市場において人権を保障するためには、
傍観者的中立などありえない。
言うまでもないが、使用者と労働者の力関係は
はっきりしている。使用者が圧倒的に強い。
労働条件を先に決める力、業務内容を決める力、人員配置、
雇用形態を決める力、人事権・・・。使用者は裁量がオオキイ。
この力関係のまま、労働契約を自由契約のまま放置していると、
労働者の労働条件・働く環境は悪化・劣化する。
労働者はモノや道具のような扱いをされる。それは歴史が証明している。
だから、
法律で「少なくともこれ以上は」という労働条件の最低限を
決めるという勤労条件の法定主義(27条2項)があり、
結社の自由よりもはるかに法的に保護された
労働組合の団結権・団体交渉権・団体行動権
(労働三権=労働基本権)がある。
仕事をあえて放棄する=労働契約違反ともいえるストライキは、
労働者・労働組合のいちばんの「秘技」であり、
団体交渉を対等に行える担保として認められている。
ストライキを行っても、刑事上・民事上の責任は問われないなど、
これまた法律の保護を受けている(労働組合法)。
『学習の友』10月号で笹山尚人弁護士は、
労働組合を「すごい組織体」と表現し、
「そのすごさの恩恵に欲していない人が多い」ことを残念がっている。
労働組合は、すごいのである。
憲法が一方的に肩入れするほど、特別な存在なのである。
そうしなければ、
労働者は生活や尊厳を守れないからである。
働きやすい職場、誇りのもてる職場をつくれないのである。
その役割を担っている労働組合は、
労働者の先輩たちが歴史的につくりあげ、
国家に「応援せよ」と憲法で命令するまでに
認めさせてきた「すごい組織体」なのだ。
人権の主体である「個人」とは、みずからの生活や人生を
仲間とともにみずから切りひらく力をもった人という意味である。
その手段を労働者はあたえられている。
憲法は
「たたかう手段はあたえました。あとはあなたたち次第です」
「1度きりの人生ですよ。あなたはモノや道具ではなく人間ですよ」と、
労働者を勇気づけているのである。