長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

看護と、患者家族として伝えたいことと

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昨年10月に、近畿高等看護専門学校(京都市)の
「卒業生支援研修」でお話しする機会があったのですが、
その話の大要をまとめた文章が、このたび学校の発行する
パンフレットに掲載されました。
テーマは
「ものの見方と人間らしさ~患者を支える家族の立場から伝えたいこと~」
でした。長いですが、以下にご紹介します。

*  *  *  *  *  *  *

 私と看護とのかかわりは、岡山にある民医連のソワニエ
看護専門学校に2006年から非常勤講師で行くようにな
ってからである。看護についてまったく無知であったので、
ナイチンゲールをとりあえず読んでみたが、驚いた。彼女
の論理の確かさと倫理観、患者へのまなざしなど、まった
く古くなっていないと感じた。看護や医療の学びは、私の
仕事である労働者教育にも活きる内容が多く、ほんとうに
ありがたい機会をいただいたと思っている。

Ⅰ.相方の入院経験から
 
私のパートナーである曽根朋子が2016年秋にALS(筋
萎縮性側索硬化症)の診断を受けた。私も今は介護生活を
している。ALSと診断された大学病院での入院体験をお話
ししたい。
 まず初めに、入院初日に神経内科病棟の若い看護師さん
がいろいろ説明してくれたのだが、“タメ口”であった。馴
れ馴れしい言葉づかいで驚いた。社会一般では初対面の目
上の人にタメ口は絶対にしない。結局、ケアする側が上で、
ケアされる側が下という人間関係が口調に現れているので
はないかと思った。もうひとつは、“看護”がなかったこと
である。看護師が看護をしていなかった。ケアがなかった
のである。ルーチンワークしかしておらず、難病と診断さ
れた曽根に対して、なんのアプローチもなかった。
 きわめつけは、主治医が告知の場面で言った言葉「曽根
さんはひとり暮らしでしたっけ?」だ。曽根が誰と住んで
いるのか、入院5日目、告知に際しても、主治医は知らな
かった。関心がないのだろうと思う。ほんとうにびっくり
した。これでは、絶望に陥ることの多いALS患者への励ま
しはできない。じっさい、身体と数値しか見ていなかった
のだろう。
 私の尊敬する医師のひとり、徳永進さんは、「入院して
病室で過ごしている患者さんは、普段はどんな風に生活し
ているんだろう、どんな家で、どんな人たちとどんな町や
村で生活されているんだろう・・・、あまりにもぼくら医療
者はそれを知らない。例えがよくないが、患者さんをスー
パーの切り身の魚のように思って済ましているところがあ
る。ほんとは1匹の魚で、それぞれに泳いでいた自然の海
や川があったはず」1)と著書で述べているが、まさに切
り身として扱われた入院体験だった。
 常識というのはその場にいる人間で作られ、文化となり
固定されていく。おかしいことも恒常化すると、おかしい
と思えなくなる。「慣れる」という力は大事だが、慣れて
いいことと、慣れてはいけないこと(立ちどまるべきこと)
があるはずだ。ただ、問いをもち議論することは、エネル
ギーが必要。流すほうがラク。日々の仕事や生活にゆとり
がない場合や、めんどうくさい摩擦・対立を避けようと、
慣れてはいけないことにも、慣れてしまう可能性がある。
だからこそ、理念が必要なのだと思う。理念によって現実
を照らす。理念と現実とは当然ギャップがあるから、その
ギャップが変革のためのエネルギーになるのだ。理念がな
ければ、現実にどこまでも流されていく。
 ひとりでいる時間、じっくり考え、自分の価値観を問い
直す時間を意識的につくってほしい。同時に、なんでも自
由に議論できる仲間や集団のなかに身を置くこと。自己の
相対化はひとりではできない。

Ⅱ.ものの見方と人権をまもる看護
 
ナイチンゲールは問いを持ち続け、考え続け、看護とは
何かをみがき続けた人だ。
 「われわれは病院において、はたして患者をケアしてい
るのであろうか。病院は患者のために存在しているもので
あって、病院のために患者が存在しているのではない」2)
 「看護のような仕事においては、忙しくてもう頭も手も
いっぱいといったときに、もし神と隣人とに対する真剣な
目標を心の中にもっていないとなれば、・・・もっぱら自分の
ためだけで終わっているといった事態が、いともたやすく
起こりうるのです」3)
 「新しい年のくるたびに、私たちひとりひとりは、自分
のあり方を『棚おろし』して吟味してみようではありませ
んか。そうして常に、自分の看護のありようを、良心の計
りにかけてみようではありませんか。婦長や医師がそばに
いなくてその判定を仰げない場合や、自分が婦長であるよ
うな場合は、なおさらその反省が必要なのです。私はこの
歳になってもそうしています。あなた方にも生涯を通して
そうあっていただきたい。・・・優れた看護婦というものは、
自分の看護婦としての生命が終わるまで、自分の看護を
“吟味”し、また新しいものを学び続けるものなのです」4)
 こうしたナイチンゲールの言葉は、私の背中を押し続け
ている。

Ⅲ.人権をまもるための射程
 
ハーバード大学の公衆衛生の先生、イチロー・カワチ
さんの例えを紹介したい。
 「岸辺を歩いていると、助けて!という声が聞こえます。
誰かが溺れかけているのです。そこで私は飛び込み、その
人を岸に引き上げます」
 「心臓マッサージをして、呼吸を確保して、一命をとり
とめてホッとするのもつかの間。また助けを呼ぶ声が聞こ
えるのです」
 「私はその声を聞いてまた川に飛び込み、患者を岸まで
ひっぱり、緊急処置をほどこします。すると、また声が聞
こえてきます。次々と声が聞こえてくるのです」
 「気がつくと、私は常に川に飛び込んで、人の命を救っ
てばかりいるのですが、一体誰が上流でこれだけの人を川
に突き落としているのか、見に行く時間が一切ないのです」5)
 下流が病院、という例えである。病院にやってくる患者
を次から次へと治しても、病気になる原因(上流)が改善
されなければ、またその人は病気になって病院に流れつい
てくる。パブリックヘルス(公衆衛生)は、川全体に責任
を持って、溺れる人を極力少なくするのがゴールである。
1人ひとりの命をどう救うかと同時に、社会全体の健康を
いかにして守っていくのかを考えることが大事だ。上流
を改善しないかぎり、人権を守ることはできない。下流
とともに上流へのアプローチを組織的に、運動として取
り組んでいるのが民医連だ。
 患者の生命力を消耗させる、健康の社会的要因(SDH)
は、さまざまである。居住環境、貧困と格差、孤立、教育
格差、長時間労働、ハラスメント、制度・政策、医師・看
護師不足、地域医療崩壊、医療労働者の過酷な労働条件、
環境問題、戦争…。目の前にいる「患者個人」を看ると同
時に、その患者個人の「生命力の消耗」をもたらす社会問
題について、洞察力をもち、改善のためのアプローチをし
ていくことが求められている。

Ⅳ.ゆらぎのなかで成長する
 
尊厳をめぐって、せめぎあいの時代になっていると思う。
パートナーである曽根も障害者になったが、移乗の2人体
制を交渉していた時に、自治体職員から「オムツを使わな
いのはわがままなんじゃないですか」となんべんも言われ
た。人の手を借りればポータブルトイレに行き、自分で排
泄できる。なぜこれがわがままなのか。障害者に人権はな
いのか。生産性で人間を判断したり、優劣をつけたり。ほ
んとうに人権学習が欠かせないと思っている。
 ただ、現在の政治状況のなかで、「1人ひとりの尊厳を」
「誰も見捨てない」という人権の理念は、現場の状況とか
ならずぶつかる。経済的にも、制度のなかでも、考え方の
うえでも、困難がある。でもそれが原動力に転化する。人
権感覚を育て、人間らしさを問い続ける。不当・理不尽な
ことに慣れない自分を。集団でなければ立ち向かえない。
 「ゆらぐ」ことができることを肯定しよう。これでいい
のか? という問いが現場には山ほどわいてくると思う。だ
から考える。議論する。ゆらぐ。逆に「ゆらがない」とい
うことは、そこで成長・進歩が終わるということだと思う。
苦悩は成長への過程である。矛盾のなかで高まりあう人間
集団をめざそう。

Ⅴ.みずからの「人権感覚」をみがき続ける
 
人権感覚は、もろく、さびつきやすいのが特徴だ。だか
ら何度でも学び、議論し、みがき続ける。人間は劣悪な環
境でも、「慣れる」「順応する」ことができる。適応力が
高い。人間らしさの「基準」「限度」は、気をつけないと
スルスル下がる。「折り合い」という名の「がまん」。
「しょうがない」「どこもこんなもんだ」「働けているだ
けで幸せだ」。こんな感覚に陥るリスクはつねにある。
 「健康で文化的な生活」「人間の尊厳」とは?つねに考
え続けていってほしい。自分の人権感覚をみがきつづける
ことで、患者さんの人権を守るアンテナをさびつかせない
ことができる。自分の人間らしさ、にこだわって、声をあ
げてほしい。
 「当事者とは、『問題をかかえた人々』と同義ではない。
問題を生み出す社会に適応してしまっては、ニーズは発生
しない。ニーズ(必要)とは、欠乏や不足という意味から
来ている。私の現在の状態を、こうあってほしい状態に対
する不足ととらえて、そうではない新しい現実をつくりだ
そうとする構想力を持ったときに、はじめて自分のニーズ
とは何かがわかり、人は当事者になる。ニーズはあるので
はなく、つくられる。ニーズをつくるというのは、もうひ
とつの社会を構想することである」6)
 めざす看護、めざす医療、めざす社会。その構想があっ
てこそ、人は当事者になる。考え続け、当事者として成長
してほしい。

1)徳永進:野の道往診、NHK出版、2005年
2)F・ナイチンゲール:病院と看護、1880年
3)同上:看護婦と見習生への書簡(1)、1872年
4)同上:看護婦と見習生への書簡(6)、1878年
5)イチロー・カワチ:命の格差は止められるか、小学館101新書、2013年
6)中西正司・上野千鶴子:当事者主権、岩波新書、2003年