長久啓太の「勉客商売」

岡山県労働者学習協会の活動と長久の私的記録。 (twitterとfacebookもやってます)

コロナ禍のもとで-講義概要

(8/21の社会権講座2回目の講義要旨です。
7500字ぐらいあります。あくまで要約です)

 まず前回(1回目)のポイントを振りかえる。1点目、日本の最高法規である憲法には、社会権が明記されている。25条~28条+24条がそれにあたる。2点目、社会権はおもに20世紀に獲得されてきた現代的人権である。「国家による自由」とも言われ、人権を保障するために国家の積極的介入を求める。法整備・法規制と「富」の再配分が柱になる。3点目、自由権だけでは強者と弱者の関係が野放しにされ、人権侵害が起こる。社会権は強者の自由権の一部を規制・制限することで、すべての人の人権を保障する社会を切り拓く。

 今回は、コロナ禍のもとでの人権危機についてがテーマだが、コロナ以前から、社会権が毀損していた(国家が社会権を軽視・敵視)ということを、まず強調したい。
 まず25条、生存権(生活権)を考えてみよう。条文はこうだ。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。②国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」。「すべて国民」なので、ひとり残らず、ということだ。「最低限度の」というのは食えればいいということではない。その国の水準にみあった、ということ。たとえば地方であれば車は必需品で生存権の必須の部分に入るだろう。冷暖房や携帯電話も欠かせない。文化は生きることを支え励ましてくれる。つまり衣食住の保障とともに、人間らしい生活、ということだ。すべての国民は貧困ではあってはならないという宣言でもある。そして2項で生存権に対する国の責任を書いてある。国を、国務大臣、国会議員、公務員と読みかえてもいい。これらの人は、すべての国民の生存権の保障のために、社会福祉・社会保障・公衆衛生の向上と増進に努めなければならない。はっきりそう書いてある。

 ところが現実はどうだろうか。それ以下では最低限度の生活がかなわないという生活保護基準を下回る貧困世帯が全世帯の4分の1弱を占め、国民の6人に1人、2000万人超が貧困状態に置かれ、働く貧困層が勤労世帯の2割を超える。今や200万人にも達する生活保護の捕捉率がじつは10%~15%にとどまるという事態だ。貧困をふせぐ手立てを国がしなければならないのに、完全に底が抜けている。子どものいる世帯の4分の1が貧困のもとにあり、なかでも母子家庭などのひとり親世帯の貧困率が5割を超えてOECD諸国中のワースト1位。生存権の蹂躙といえる事態が、コロナ禍以前にも広がっていた。
 もともと低水準であった日本の社会保障は、2012年の社会保障改革推進法の成立以降、社会保障の解体攻撃が加速した。2013年以降、7年間の累計で1兆7千億円もの社会保障予算を削減。医療・介護費の抑制。病院の統廃合。公的責任の後退。人的体制+経営的ひっ迫。背景にケア労働への冷遇がある。年金制度にいたっては、最低生活保障機能を完全に失っていて、「老後の生活費は2000万円不足する」という報告書まで堂々とつくられた。国民年金は40年間保険料を払っても満額で64000円だ。これでどうやって生活するのか。
 さらには公衆衛生機能の縮小である。地域の感染症対策の拠点である保健所は1990年全国850か所から2019年472か所にほぼ半減。職員数も7000人減らされた。国立感染症研究所の予算や人員も抑制・削減が続いてきた。
 もう一度25条の条文を読んでほしい。「向上及び増進」と書いてある。しかし事態はまったく逆の方へ進んでいるのだ。

 次に26条、教育権(学習権)を考えてみよう。条文は「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。②すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする」である。
 ひとしく教育を受ける権利が、実際にどうなっているのか。2016年、日本の公財政教育支出の対GDP比は2.9%とOECD加35か国中、3年連続最下位だ。教育にお金をかけない国になっている。少人数学級は広がらず、教員数も抑えられてきた。子どもの(=親の)貧困の広がりのなかで、教育を受ける機会は、すでに教育機会においても、教育環境においてもはなはだしく不平等となっている。お金のあるなしで、学習権が奪われる国になっている。先進国のなかでも飛びぬけて高い高等教育の学費が、家庭や学生本人に深刻な学習権のはく奪をもたらしている。学生は生活費や学費をまかなうために、長時間のバイトを強いられている。学生ローンと化している名ばかり奨学金制度も深刻な問題を引き起こしている。無償であるはずの義務教育も、給食費だ教材費だ、なんやかんやと、さまざまな費用が発生している。ここでも、憲法の条文どおりでない事態が深刻な形で広がっている。

 27条の勤労権はどうなっているか。「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。②賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。③児童は、これを酷使してはならない」。これが条文だ。働くことは権利なんだ、という点をまずおさえてほしい。この条文によって、職業紹介、職業訓練、あるいは失業者への生活保障にたいする国の責任が発生する。これも現実はどうか。リストラなどによる常時200万人前後の「完全失業者」(失業給付は2割にとどまる)に加え、今や勤労階層の4割ともなる非正規雇用すなわち不安定・低処遇労働のまん延によって、多くの人びとにとって生活の維持すら困難な実態がある。他方、正規雇用労働者も長時間労働や病気でも休めない過酷な労働条件のもとで苦しんでいる。派遣労働解禁による広がり、フルタイムでもあたり前の生活ができない最低賃金の水準、進まない格差是正・均等待遇の法整備…。男女間賃金格差を放置。労働法の適用から外れる労働者の増加(名ばかり個人事業主)。権利としての労働権、まっとうな働き方、雇用保障は崩壊していると言えないか。

 最後に28条(労働基本権)をみてみよう。「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する」。とてもすっきりと規定されている。世界でもこれほどすっきりと労働基本権が書いてある憲法はあまりない。しかしいまや労働組合の組織率は戦後最低、17%を切るところまで落ち込んでいる。先進国では例外的な「ストライキのない国」にもなってしまった。切実な実態はあるのに、集団としてエンパワーメントできない状況がさらに広がっている。公務員労働者の争議権は戦後すぐにはく奪されたし、たたかう労働組合への攻撃と弾圧も繰り返されてきた。日本の財界は労働組合の力を分断するべく、1989年に労使協調路線にかたよりがちなナショナルセンター連合を結成するなど、28条を骨抜きにしてきたといえる。

 社会権実現の鍵である、富の「再配分」機能はどうなっているか。再配分機能は後退し、富の偏在と集中が加速している。たとえば大企業の内部留保は487兆円(2019年度)にまで年々増加している。大企業の役員報酬や株主配当は増えるも、従業員賃金は横ばいのままだ。働く貧困層が広がる一方で、100万ドル以上の金融資産保有者(富裕層)は281万人。これは米国、中国に次ぐ世界第3位となっている。金持ちも多い国なのだ。
 大企業への優遇税制もいたれりつくせりで、大企業の実質法人税負担率(10.9%)は中小企業(小規模18.6%、中規模21.0%)よりはるかに低い。研究開発減税、受取配当益金不算入制度、連結納税制度など、さまざまな優遇があり、もっぱら大企業だけが、こうした制度を利用している。所得税についていえば、驚くことに所得が1億円程度を超えると税負担率が下がっていくのが日本だ。富裕層の所得の多くは株式譲渡所得であり、これに対する税率が15%(住民税を含めても20%)と低く抑えられたままだから。欧米では30%前後が普通である。
 以上みてきたように、日本は「社会権などないような国」になってしまっている。なぜそうなったのか。1つは、社会権(憲法)を無視した政治がある。そうした政治家を多くの国民が選んでいる問題ともいえる。2つ目は、国家権力や企業の力に対抗する、社会的運動の脆弱さ。とくに中心となる労働運動の力が弱いというのが、今の状況をまねいている。3つ目は、日本の人権教育における社会権の欠損だ。主権者教育の機能不全が起こっている。「じゃあどうすればいいんだ!」という声が聞こえてきそうだが、これからの運動論については第3講義で考えたい。

 今日のポイントの2つめに移っていきたい。新自由主義、自己責任論の席巻が、社会の脆弱化をもたらしたということについて、もう少し深めてみたい。
 市場における自由競争にもっとも価値をおく経済理論・思想が、いわゆる「新自由主義」と言われるものであり、人権よりも経済的自由(市場経済の自由)に重きを置く政策として推進されてきた。
 この新自由主義がわかりづらいのは、この言葉自体は何も中身を語っていないし、「自由」という言葉を否定する人はほとんどいないためである。自由はいいものだ、というのが一般的な理解だろう。問題は、誰の、何のための自由なのか、という正体をつかむことである。新自由主義は、財産や能力などの「自分の所有物」の最大化をめざす活動・活力こそが人間の本質であり、その点での規制や制限がないこと、これこそが自由である、という考え方をとる。そうした所有物の最大化を可能にするものこそが「競争」であり、市場における自由競争こそに最も価値をおくのだ。
 前提としての強烈な個人主義がある。したがって、新自由主義的政策は社会権を否定する。①企業や市場競争における規制をできるだけ少なくしようとする。規制なき資本主義に。②利潤の最大化のみ追求。株主配当の上昇と賃金抑制。人権や環境は二の次。③富の再配分に反対。貧困や格差は必然で、活力の源泉として有益と考える。
 私なりに翻訳してみよう。「この国の最高法規は、市場における自由な競争。これこそが人間の本質、活力の源泉。生存権とか教育権とか、人間らしく働くルールとか、労働組合、そんなものは競争の障害物。社会保障は競争の敗者によるたかり。国に頼らない自立した個人になりなさい。自己責任。社会なんてものはない」。これが新自由主義の本音だ。
 とくに1980年代以降は、新自由主義的政策の逆流に多くの国が飲み込まれ、さまざまな規制緩和(競争の自由のため)が行われ、公共領域の縮小化とサービス産業化が進んだ。官から民へ、公務員の削減、緊縮財政。国家予算は人権にもとづくものではなく、強い経済のための集中と選択に置き換えられた。

 次に、新自由主義的政策の論理的帰結としての「自己責任論」について深めたい。責任の偽装による分断と無力化、これが自己責任論のもたらす結果である。失業や不安定雇用、貧困などを「個人の問題」にしてしまい、その責任を当の個人の努力や能力の不足によるものと強弁し、またそう思い込ませることで抗議を封じ込める。それは、新自由主義的支配の合理化・正当化のためのイデオロギー(思想形態)であることを本質としている。これは、意識的に注入・浸透されられてきた考え方である。
 自己責任論は、「社会的責任」と「個人的責任」を意図的に混同し、支配層にとっての不都合なことすべてを「自己責任」に解消することで、社会的・公共的責任を放棄し、あるいは隠蔽しようとするものだ。たとえば若者の就職難や非正規雇用の増加は、どこにその原因・背景があるのか。個人の問題でないことは明らか。ベクトルが外へ向かわないよう偽装し、自分(個人)へと向かわせる装置になっている。中西新太郎さんは『<生きにくさ>の根はどこにあるのか』(前夜セミナーbook)のなかで、こう述べている。「被害を被っている側に<自分に責任がある>と感じさせてしまう、つまり困難を内閉化させる抑圧様式は日本社会いたるところで蔓延しています。…一人ひとりが抱える困難をその人の内側へと閉じ込める強烈な力が働いている。私には異議を申し立てる権利があるとは言わせない。封殺する力です。責任を偽装すると言った性格ですが、これは、きわめて深い抑圧の姿です。…このようなレトリックや自分に責任があるという感じ方を導く有力な言説として<自己責任論>がある。…抑圧された者たちを徹底的に無力化していく思想的回路として、自己責任論をとらえる必要がある」
 自己責任論が流布しやすい理由の一つに、「一人前」の人間は、他人に頼らずに自立すべきもの・自ら助けるもの、という「自立・自助」の世間的常識がある。誰にも頼らずにちゃんと生活をたてていけないような人間は一人前ではない、といった「自立観」は、果たして妥当だろうか。人間という存在は本源的に関係的・共同的であり、相互依存的だ。少し考えたら、1人で何もかもつくり、生活できる人などいない。水道、電気、食料。スマホだって、多くの人の協働生産物である。多くの社会的労働によって1人ひとりの生活は成り立っている。ほんらい「自立」とは、関係や能力の共同性を前提としていて、関係のなかに自立がある。人間の本質的存在様式は、「社会的諸関係のアンサンブル」(マルクス)であり、「自立」ではないはずだ。
 やや難しいが、竹内章郎・吉崎祥司著『社会権~人権を実現するもの』(大月書店)では、こう指摘している。「日常的な意識では、『自立』は普通、できるだけ他人に『依存』せず、迷惑をかけないこと、人の手を煩わせないことなどと表象される。若者にとっての『自立』とは、第一義的に『誰にも頼らずに自分のことができること』である、とする近年のアンケート結果もある。しかし言うまでもなく、『誰にも頼らずに自分のことができること』は、さしあたりまず、『誰にも頼らずに生活ができること』を必ずしも意味しない。自明ながら、人はみな社会的分業、つまり相互依存や頼り合いをつうじてはじめて生活する(生活物資やサービスを得る)ことができるからであり、本源的に『誰にも頼らずに生活できる』ことなどありえない。にもかかわらず、『一人でやっていける』という表象が成立しているのは、商品生産と交換が普遍的なものとなった資本主義社会に固有の『物象化』によるものである。この全面的に物象化した社会関係のもとでは、人は貨幣を手にすることによって、他の具体的な人格と没交渉のままで生活できる、つまり物資・サービスを自由に購入できるという感覚が得られる。貨幣をもってさえいれば、他に依存することなく経済的に『自立』できる、という思い込み、倒錯が生じたのである」
 こうした「経済的自立」が可能なのは、実際には条件的・偶然的、一時的・部分的であり、経済動向・景気変動や労働能力、性別や年齢などなど、そして労働政策などによって左右され、個々人の努力や意欲には還元できない。「経済的自立」のための貨幣を稼ぎ出す「能力」も、「個人の所有物」というのは正しくなく、例外なく歴史的にも同時代的にも、他者・社会によって媒介されているというのが本質だ。1人だけでつくることのできる「能力」などない。

 最後に、コロナ禍のものでの人権の危機について考えたい。まず雇用である。深刻だ。経済の急激な落ち込み・縮小(4月~6月GDP年率27.8%減)により、あらゆる産業に影響が及んでいる。6月の総務省・労働力調査で、非正規労働者は前年比104万人減。非正規労働者の雇い止めが広がっていることを示す数字だ。まっさきに弱者にしわ寄せがいっている。休業者が多く、緊急事態宣言下で597万人。営業再開で減ったものの現在も236万人という数字になっている。この休業者が失業者になる可能性がある。雇用調整助成金は年末まで延長されたが、危機は深刻である。ちなみに休業者の6割は女性となっている。
 雇用がぐらつけば、生活もぐらつく。収入減に直結するからだ。もともと、現役世帯の約4分の1が、金融資産をまったく持っていないか、残高が少額で1~3か月程度の生活費しか賄えないという実態(ゆうちょ財団調査。2018年)があった。コロナショックの影響が続けば、家計の破たんにつながるケースが増えてくる。4月の生活保護申請件数は前年同月に比べて24.8%の増だ。
 医療・介護はどうか。病床ひっ迫。たらいまわし、院内感染など、「医療崩壊」の瀬戸際だったという報告が多く出されている。PCR検査の軽視と遅れが背景にある。もともと感染症病床、集中治療室の体制が脆弱だったことも露呈した。8割の医療機関が収入減(保団連アンケート)で経営危機だ。国からの抜本的支援がない。病院赤字が5月は平均5千万円。コロナ患者受入れ病院は平均1億円(公私病院連盟調査)。もともと診療報酬の抑制で赤字経営が多く、人員体制もギリギリのところにこの事態だ。コロナの影響で受診抑制広がっている(持病悪化も)。支えている労働者の賃金抑制にもつながっていく。こんなことを放置しては絶対にいけない。介護職場でも感染予防具不足も背景に「コロナ離職」も報告されている。医療と同じ構造的困難を抱えている。
 教育も深刻である。首相の独断専行による一律休校(2/27)で現場は大混乱した。保育も学童保育も甚大な影響を被った。学習権の危機、保護者の勤労権を脅かしたともいえる。異常な学習環境は続いている。多くの大学が入構を禁止し、対面授業を自粛している。「オンライン授業」の導入で、大学や教員、学生にさまざまな負担を強いている。実験や実習授業は実施が難しくなっている。「2割の学生が退学を検討」(学生団体「高等教育無償化プロジェクトFREE」調査)。立命館大学でも4人に1人が休学を考え、10人に1人が退学を検討(大学新聞調査)という調査がある。この危機のなかで、「少人数学級を」の声と運動が急速に広がっている。
 さいごに、保健所体制の脆弱さが浮かび上がった。PCR検査を受けられない事態が続出した。政府がこの30年、保健所と職員体制を削減してきたことがパンク状態の背景にある。

 思いつきの一斉休校にはじまり、地域の相違をみない緊急事態宣言、アベノマスク、GOTOトラベル…。国会開かず首相は雲隠れしていた。国民生活は目に入らず、無責任、積極的政策放棄の日本政府の対応は、世界的にもきわめてまれである。転換に向けた行動や運動を広げることが求められている。政治を変えなければならない。新自由主義と決別し、社会権再生をキーワードにしなければならない。第3講義では、財源論のそもそもと、これからの運動論を提起したい。